少年タケシ

はじめてのDIY


はじめてのDiY震災
2011年04月04日


私たちは地球的時間を前にしてどのように「思想」を立て直すことができるのか。
3月11日の震災以降

 3月11日に東北沿岸部を襲った東北地方太平洋沖地震の余震はいまだに続いている。これは、単に物理的な自然災害が続いているというだけではない。激震は、人々の思考や思想の中でまだ収まらずに続いている。日本の思想を考える上において、2011年3月11日という日付は、1945年8月6日や8月9日、そしてそれに続く8月15日と同じくらい重要な意味を持ち続けるだろう。被災した人たちが一刻も早く日常生活に戻ることを復帰しつつ、私たちはしばらく喪に服すことになるだろう。
 
 けれども、この「喪に服す」作業が長くなることはすでに確実だ。10年かもしれないし100年かもしれない。被害はあまりにも甚大であり、人間はあまりにも脆い。とりわけ被災地の状況は依然絶望的だ。さらに福島原発から広がる放射能の影響がどの程度のものなのか、私たちには計る術はない。政府や東京電力は動揺を鎮めようとするだろうが、結局は私たちの不安は収まることはないだろう。私たちは目に見えない放射能に脅えながら、共存する道を選ばざるをえないのだ。もちろんいやいやながら。

 私のまわりでも原発の影響を憂慮して、東京から脱出をしている人が少なくない。子供や妊婦など家族だけ移動させるという例もある。中長期にはこの傾向はさらに高まるだろう。個人的には,今は自分が逃げるのではなくしばらくは福島をはじめ被災地の人々の救助に集中すべきだと思う。けれども、そうした短期的な感想は別に、おそらく私自身は、結局東京に留まり続けることになるだろう。積極的な主張や決意があるわけではないが、特に東京以外で何かできるとはとても考えられないからである。楽観的といえば楽観的だが、要するに実際のところ判断ができるだけの十分な材料がないのだ。

 確実なのは、いずれにしても生き残るためには私たちの行動の枠組みをすべて変えざるをえないことだ。現状の被害を考えれば、これまでの経済や政治の仕組みをそのままにして小手先の対応だけで復興できるとは思えない。

 ここで緊急に求められているのは、価値観の決定的な転換である。私たちは,結局は自然には勝てないのだということを認めなければならない。地震と津波、そして原子力は、それぞれ全く異なった現象であるが、これらが暴走した時にそれを制御する能力を私たちは残念ながら持ち合わせていないのだ。

 より便利に、より効率的に、より快適に、という進歩主義的で楽観的な思考が、テクノロジーによる自然の支配を促進してきた。利益優先を原理とする資本主義経済がそれを支えた。けれども、自然は決してテクノロジーに屈することはなかった。さらにやっかいなことに、私たちの手の中にあったはずのテクノロジーまでが、すでに私たちの制御能力を遥かに越えてしまっていたのだった。

 原子力の問題で、いっそう深刻なのは、その影響が私たちの世代に留まらないことである。それは、空気や海、土壌の汚染という形で、あるいは人間や動物の食物連鎖や遺伝子という形ですう世代に渡って影響を及ぼすと言われている。その影響がどのようなものかは、今現在ではわからない。それは、作り出した私たち自身が責任を持つことができない途方もない長い、何万年にも及ぶ地球史的とも呼ぶべき時間を孕んでいるものなのだ。

 こうした地球史的な時間を持ったテクノロジーを、たかだか100年を切る程度の生しか受けていない人間が用いるのは、ひょっとしたら傲慢な営為だったのではないだろうか。私たちは自然に対しても、テクノロジーに対しても、自らの能力をわきまえた倫理を持つべきではなかったか。

 これまでこの連載ではDiY文化を紹介し、語ってきた。もちろんDiY文化は、自分たちの身の回りのことから思考し、行動することで、大きな資本やテクノロジーの論理とは違ったオルタナティヴな生活様式を目指している、という意味では、こうした非常事態にも耐えうるような一つの規範を示そうとしたものだった。

 けれども、311を契機にこうした指向すらも今では牧歌的に感じられるのも否定できない。今模索しなければいけないのは、これまでの生活の基盤の徹底的な見直しであり、自然やテクノロジー、人間の死や生、政治や経済を地球史的な視点で考えられるような強靭な思考のあり方である。

 「喪に服す」というのはそうした作業である。震災によって失われた人々の生活に思いを馳せること。もちろん、これ自体途方もない作業だ。そもそも何万年に及ぶ人類の歴史の中では死んでしまった人の数の方が、今生きている人の数よりもはるかに多いのだから、生きていることは例外的なことなのだ。生きることは、そうした特権を行使することである。それは、途切れそうになりながらも、細く続いている人類の歴史を過去から未来へと届けることにほかならない。

 もちろん必要以上に深刻になる必要はないのかもしれない。けれども、何かがはっきりとカチッと音を立てて変わってしまったことは、確認しておくべきだろう。これからは、一人一人の思考が、行動が、問われる。状況は厳しい。




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itabashi
毛利嘉孝(もうり・よしたか)

東京藝術大学助教授。一九六三年生。専攻は社会学・文化研究。特に音楽や美術など現代文化と都市空間の編成や異文化理解をテーマに幅広く活動中。
主著に『文化=政治:グローバリゼーション時代の空間の叛乱』(月曜社)、共著に『カルチュラル・スタディーズ入門』『実践カルチュラル・スタディーズ』(ちくま新書・ともに上野俊哉との共著)、翻訳にジェイムズ・クリフォード『ルーツ』など。編書に『日式韓流:『冬のソナタ』と日韓大衆文化の現在』(せりか書房)。NPO法人アート・インスチチュート北九州理事。
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