少年タケシ

編集長コラム


ナンバデッドエンド
2010年08月23日


 せっかちな性分で、連載マンガを雑誌で追うことはまずない。単行本を追うことすら珍しく、たいてい完結してからまとめて読み通す。続きが気になって仕方がないのだ。そんな私がしびれを切らして、ヤキモキしながらも最新刊を楽しみにしているのが小沢としおの『ナンバデッドエンド』だ。これはいわゆる「ヤンキーマンガ」で、前作『ナンバMG5』の直接の続編になっている。「ヤンキー漫画」というのはこれはこれで厄介なジャンルで、「ヤンキーらしいヤンキー」という基本的には近過去(せいぜい90年代前半まで)の文化にどうリアリティを持たせるかという部分で試行錯誤している。

 その結果発生した二大潮流が、いわゆる「アフターヤンキー」ものと、「コスプレヤンキー」ものだ。前者はつまり、ヤンキーというものを思春期のモラトリアムのライフスタイルと位置づけ、そこから卒業して落ち着いた人間と、永遠にモラトリアム=ヤンキー社会に留まろうとする人間の対立を描く作品である。高橋ヒロシ『QP』、山本隆一郎『サムライソルジャー』などがその代表例だ。田中ヒロシ『莫逆家族』はこのテーマの批判的な変奏だろう。
 そして「ヤンキー」というキャラクターをディフォルメして描き、その今となってはアナクロなライフスタイルや価値観で笑いを取るのが「コスプレ」ヤンキーもののパターンだ。先日完結した『エリートヤンキー三郎』、この春ドラマ化された『ヤンキー君とメガネちゃん』などがその代表例だろう。そして『ナンバ〜』は後者のパターンの変奏であり、そしてもっとも洗練された構造をもっている。
 
 主人公の難波剛(なんば・つよし)はともにかつて地元(千葉)にその名をとどろかせたヤンキーである両親の間に生まれたエリートヤンキーだ。兄の猛、妹の吟子とともにヤンキーの英才教育を受けており、兄の猛は「両親の期待に応えて」不良道を一直線、高校時代は関東制覇(つまり関東中のヤンキーたちを武力制圧して支配下に置く)に成功している。次男の剛も同様に、ケンカ三昧の中学生活を送り早くもその名を不良界に轟かせていたが、ある日彼は「ケンカばかりの生活がイヤになり」、不良をやめたいと思うようになる。そこで剛は一念発起して猛勉強、担任教師と共謀し親には内緒で(そこそこの進学校と思われる)白百合高校に進学する。ただし、家族にはそのすぐ近所にある底辺高校・市松工業に進学するとウソをついて……。かくして、家庭では不良、学校では優等生という剛のゆがんだ二重生活が展開していく。ここまでが前作『ナンバMG5』に当たる。
 
 「コスプレ」ヤンキーものといえば気弱な主人公が不良に憧れて「高校デビューする」というのが定番だが、『ナンバMG5』はそれを逆転し、不良だった主人公が「優等生デビュー」する逆転の発想でつくられている。この二重生活の生む笑いを作者は周到に組み立てており、それだけでもコメディとして十二分に楽しめる。
 そして続編である『ナンバデッドエンド』では、高校三年生になった剛が次の進路を決める時期にさしかかり、いよいよその高校生活の実態を家族に隠しきれなくなっていく。コメディ色の強かった前作とは打って変わり、シリアスなドラマが展開する。そしてここで扱われているのはたぶん、ヤンキー漫画というジャンルそのものが、いや私たちのコミュニケーションそれ自体が直面している巨大な問題だ。剛の前に立ちはだかる不良少年たちも、そして剛の愛する家族たちも、今や「キャラクター」(演じるものでしかないもの)でしかない「ヤンキー」を「本質」(拭い去れないもの)として認識してしまっており、それゆえに剛の「普通の生活がしたい」という価値観を理解できない。いや、剛の家族たちは「ヤンキー」という「キャラクター」を「本質」と「解釈すること」でその絆を確認するという構造をもっているので事態は余計に厄介だ。剛の家族は前作から明るく、思いやりに溢れた理想の共同体として繰り返し強調されており、その楽園を支えるものが「キャラクター」を「本質」と(あえて)錯覚するある種の手続きであるという同作の構造は、私たちは自分たちが選択した「キャラクター」に対して、どこまで距離を取ることができるのか、アイデンティティを支えうる濃密なコミュニティはそんな「錯覚」にしか支えられないのではないか、そんな問いを突きつけてくる。そして、そんな「錯覚」は基本的にリベラルな価値観(ここでは剛の自己決定)と対立するのだ、ということも。

 現在、物語の焦点は剛と家族の和解(特に最強の「ヤンキー」である兄・猛との和解)にシフトしつつある。果たして剛は、ヤンキーという「幻想」をどう処理していくつもりなのだろうか。ヤンキーという本質は存在しない。存在するのはもはやヤンキーという「キャラクター」だけだ。剛はそれが幻想にすぎないことも、しかしそれゆえにその幻想は現代において数少ない決定的な承認を与えるコミュニティ(たとえば「家族」)の源泉となるものだということも分かっているのだ。剛の「戦い」は果たしてどこに帰着するのか。今から楽しみで仕方がない。




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itabashi
宇野常寛(うの・つねひろ)

1978年生。批評家。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に「ゼロ年代の想像力」(早川書房)。
共著に更科修一郎との時評対談集「サブカルチャー最終審判 批評のジェノサイス」(サイゾー)。
近刊に「母性のディストピア」(新潮社)など。
itabashi
青木俊直(あおき・としなお)

1960年生まれ東京出身。自分のマンガ絵を生かせる場所を求め雑誌の仕事やらテレビの仕事やらキャラクターデザインの仕事やらウェブ関係の仕事やらを節操なくこなす。
フジテレビ「ウゴウゴルーガ」「ガチャガチャポン」、NHK「なんでもQ」「おかあさんといっしょ」、テレビ朝日「やじうまワイド」やじおうまこキャラクター、JR東日本びゅう商品券「びゅうりっぷちゃん」、G-mode携帯ゲーム「ゆるゆる劇場」など。
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