少年タケシ

ブログ・ライティング


-- 追悼 --
2012年03月30日


僕が駒沢先生とはじめて会ったのはもう20年以上前になる。

たしか''90年代初頭、雑誌「SWITCH」が「The New Lost Genereation〜あらかじめ失われた世代〜」という当時のアメリカ文学の担い手たちを特集した別冊を出した。ジェイ・マキナニーやブレット・イーストン・エリス、あるいはデヴィット・レヴィットといった作家のインタビューなどで構成され、彼らが好きだった僕にはうってつけの本だった。そこに書かれている文体もあのころの乾いた感覚、「あらかじめ失われた」そんな感覚をうまく紡ぎだしていた。聞けば、その編集者はひとりでアメリカを横断しながら取材したという。
 
同じころ、フジの深夜番組で「アメリカンギターズ」という番組があった。アメリカのギターメーカーを巡りながら、アメリカンロックの歴史を振り返るという番組で、たまたま見た初回がリッケンバッカーだった。ロードームービー風のその番組は最後にバーズのリーダー、 ロジャー・マッギンが12弦のリッケンで「ミスター・タンブリン・マン」を弾き出す姿になぜかアメリカが失ってきたものがオーヴァーラップしてきた。おそらくそれはその私小説風のナレーションのせいだったかも知れない。
そのナレーターがこの番組の構成作家で、アメリカを横断してきたのはすぐあとのクレジットでわかった。

そして、さきほどの編集者とその構成作家が同一人物と知るのはそう時間がかからなかった。その人こそが駒沢敏器。

作家でもあり、翻訳者でもある駒沢先生の作品「ミシシッピーは月まで狂ってる」「語るに足る、ささやかな人生」「地球を抱いて眠る」「アメリカのパイを買って帰ろう」「夜はもう明けている」、タイトルのなんとステキなことか。その独特な文体に魅せられてしまった。

共通の知り合いを通じて会って以来、半年にいちどくらいの割合だったけど、会うたびに小説、特にアメリカ文学を、そしてアメリカを語り合った。

マキナニーの著書を翻訳したとき、高橋源一郎訳と比較されるのがなんだかなあという話。エリスの「レス・ザン・ゼロ」がいかに傑作でその映画がいかに駄作かという話。ダグラス・クープランドは「マイクロ・サーフ」で次へ抜け出したよねという話。ポール・オースターの最高傑作はなにかという話。僕は「鍵のかかった部屋」か「最後の物たちの国で」だけど、先生は「偶然の音楽」か「ムーン・パレス」って言ってたっけ。柴田元幸さんの翻訳の素晴らしさは共通した意見だった。

沖縄にもよく行き、沖縄の話もよくしてくれたけど、彼の話す沖縄には常にアメリカが傍らにいた。
じぶんが横断したアメリカ、本から感じ取ったアメリカ、人から聞いたアメリカ。
彼の語るアメリカはいつもどこか乾いていて、そして、なくなってしまったなにかを懐かしむかのようだった。

駒沢先生には「ここではない、どこか」、そんな言葉が似合う。
いつもいるようで、でもいないような、そんな感覚。常に旅をしているような、そんな喪失感。不思議な人だった。

その後、中学生対象の番組を作るときに原案を書いてもらったりもした。どうやったら勉強の面白さが伝わるだろうか、とそんな無茶ぶりにも素晴らしい文章を返してきてくれた。

この少年タケシの編集長を引き受けたとき、日記か小説かわからないものを書いてくださいと真っ先にお願いした。
駒沢先生なら、きっとそうした不思議な感覚の文章を書いてくださるだろうと。
あらためていま読み返してみると、リアルとフェイク、フィクションとノンフィクションが入れ替わるような、そんな不思議な感覚をおぼえる。もっと読みたい。いまあらためて思う。

最後に会ってからもうどれくらい経ったろうか。
足が少し悪くなったという話も聞いて、青葉台まで行きますよという電話をしたのが最後だったかもしれない。

できるなら、もういちど、アメリカ文学の話をしたかった。マキナニーはいまなにをしているんだろう。エリスはもう書かないのか書けないのか。クープランドはどうしてアートにいってしまったのだろうか。オースターなら3.11についてどう語るのだろうか。

いまになって話したいことがたくさん出てくる。
「なにかを失う」ということは、たぶんこういうことなんだろう。


少年タケシ編集長 福原伸治 

 




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文字の発見
2012年01月16日



「小生も今年は恥ずかしながら、70歳になります」という賀状を受け取った。沖縄は普天間に生まれ育ったとある人物が、僕に宛ててきたものだ。

 仮にKさんとしておく彼とは、取材で知り合いになった。米軍兵とのあいだにハーフの子供として生まれ、小学生で体が大きくなりはじめると、絶え間なく喧嘩をくり返した。そして高校に上がる頃には、先に任侠の道に進んでいた先輩に目をつかられるようになり、以降は少年院での日々を過ごした。しかしこの日々が、彼のその後の人生を変える。
「ハーフだからって馬鹿にされたくなくて、自分で体を鍛えて悪いこともしてきましたが、警察に捕まってからの日々のほうが、よほど自由だと気づいたんです」

 喧嘩に明け暮れていたKさんはロクに学業を修めていないため、文字というものを理解することができずにいた。聞いたり喋ったりすることならできるのだが、さあ自分の考えを文章にまとめよと言われても、いまさら何をどうすれないいのかわからない。
「ところが刑務所に入ったら、辞書やら本やら専門の参考書がたくさんある。これは素晴らしいと思いました」

 刑務所で文字を学び直したことによって、彼はそれまでの自分をめぐる人生というものに対して、客観的になることができたという。自分はなぜあのとき、あのようなことをしたのか。なぜああするしかなかったのか。そのような回顧はすべて、文字の回復によってもたらされた。
「文字を知るまえの自分はいったい何なんだったんだろう、と思いますよ」欠けた指を隠すようにして、彼が穏やかに話していたのを思い出す。
「それは結局、別に何者でもなかったわけさ。まったくのゼロ。ゼロ野郎。でもね、言葉を学んで自分のなかで意味というものがつながれていくと、そこから逆に自分が開かれていくんです。それまでの自分とは違った、創造の始まりですね。言葉を身につけるというのは、僕の場合はそうでした」

 仏教の修行ではないけれど、文字を会得することは彼の場合、自分自身の創造に他ならなかった。だからこそそこでいままでにない自由を感じ、新しい展開があることを学ぶことにもなった。

 文字が中途半端な若者を目にすると、Kさんは居ても立ってもいられなくなるという。それが負い目となって追いこんできてしまった自分自身を、よくわかっているからだ。
「文字を書くのは、気持ちはいいことです。心にも体にも芯みたいなものが通る気がして、それでしゃんとなれる。生き返るような想いですね……」

 達筆ではないけれど、そのような想いをしたためてきた彼の賀状には、自分に対する決意を超えた、すべての何ごとかに対する温もりがあった。文字を新しく知ることになった彼の生き方は、ある意味では幸運なのかもしれないと思う。



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沖縄もやもや
2011年12月05日



 なぜこの問題になると、ことの真相がかえってぼやけてしまうのだろうと思う。
前沖縄防衛局長が記者たちを伴っての非公式の会食の場で、既に報じられているようにつぎのような問題発言があった。普天間基地の辺野古移設へ向けての環境アセスメント提出の時期について尋ねられた前防衛局長は、「やるまえに、これからやると言いますか」と口にした。
沖縄、特に女性たちを侮蔑・愚老するものとして局長は更迭されたが、それはつぎの人物に頭がすげ変わっただけのことである。問題は何ひとつ解決されていない。そしてその問題について、たとえば市井の人々の声もマスコミなどで報じられているのだが、本土に住む日本人たちにはその声の本質がなかなかそのままは届かない。
「ぞっとする。気持ち悪くて考えたくもない」
「いつまで沖縄の県民を馬鹿にしているのか」
等々。
 ここで何がわかりづらい・届きにくいかというと、沖縄の人たちがずっと抱えてきた意識を代弁してはいても、充分な説明にはなっていないという点だ。あるいは日本人と沖縄人が認識を共有できていないというべきだろうか。
 在日米軍基地の74%が沖縄に例外的に集中していることにのみ、彼らは怒っているわけではない。それをめぐるさまざまな陰湿な暴力などがあって、そのつどやはり島は蹂躙されているのとの思いが上がる。日本からは「過剰な基地負担」といった論点で語られてしまうが、彼らからすれば「なぜ島は蹂躙されつづけているのか」という問題であり続ける。ここにギャップがあり、その段差が報道されない。それは沖縄に対しての「差○」ということになってしまうからだ。しかし少なくとも沖縄県人たちは、はっきりとした「被○別意識」にさいなまれ続けている。ずっと昔から。
 友人の沖縄人が、ブログでこんなことを書いていた。ミュージシャンだけに、突き抜けた表現だった。
「別にこんな発言に、僕には驚きはない。ずっと昔から繰り返されたことが、続いているだけだから」
「沖縄でもなければアメリカでもない。オキナワでもなければ日本でもない。何人なんでしょうね? 僕たち」

 沖縄でははるか以前からずっと目のまえで事態が続いていて、日本でははるか遠くなのでその度にすぐに忘れ去られる。この段差のなかにある「もやもや」は、いつまで経っても消えない。過剰負担はそのまま歴史的にみて差○なのだという問題を日本側で共有しないかぎり、彼らが何に怒り、怒りさえ冷静に受けとめているのかが、日本にいたのではなかなかわかりづらい。
 そして沖縄に関する問題発言がある度に、もやもやの壁は厚くなっている気がする。




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幸福の尺度
2011年11月21日



 ブータン国王夫妻の来日を取り扱っているとある情報番組で、不思議な場面を目にしてしまった。
司会者はまず写真を通してブータン王国の自然の豊かさとその景観に触れ、つづいて「国民総幸福量」について紹介した。そしてその結びとして、「どこか昔の日本の風景にも似ていますね。幸福とは何かを考えさせられます」と、ごく簡単に結論づけた。これが気に入らなかったのだろうか、コメンテーターが猛然と嫌みなことを言い出したのだ。
「昔の日本っていいますけどね、いつですか。江戸なんじゃないですか?」

 別に何時代でもいいのではないだろうか。日本人の心の琴線にふれる風景がそこにあったから、いまの日本ってどうなんだろうと、司会者は言いたかっただけなのだ。ぼくたち幸福なんだろうかと。

 しかしその司会者は予想もしない攻撃的な姿勢にあえて反応をみせず、少し間を置いていると、コメンテーターはさらにまくし立てた。
「国民総幸福量っていいますけどね、あくまでも自己申告制でしょ。本人たちがそう思っているだけなんでしょ」(つまり客観的数値じゃないんでしょ)

 いったい何のどこが気に入らないのだろうか。本人たちがそれでいいというのだから、大きなお世話である。何の関係もないあなたが、上から物を断定しているのがそもそもおかしい。ところがこの人は、まったくそのことに気がつかない。大きな新聞社で論説委員にまでのぼりつめると、このようなメンタリティになってしまうのだろうか。

 ブータン王国ではチベット密教を国教としている。国民のほぼ全員が、その信者だといっていい。日々祈りの生活のなかにある彼らは、ささやかに功徳をほどこしつづける。たとえ経済的には貧しくとも、それでこと足りているのだし、祈りの毎日は人の心を純化させる。だから幸福なのだ。決してこのような尺度を持ち出して国民を欺いているのではないし、まったく洗脳などではない。わたしたちは昔から伝えられたこの教えのなかでやっていく、という決意ないしは宣言にもそれは近い。

 知人がついさきごろ、このブータン王国に行ってきた。やはり老若男女みないい顔をしていて、特に老人の男性の表情が印象に残ったという。なかば悟っているといったら大げさだが、すべてを受け容れて生きてきた人の顔がそこにある、というのだ。まさに知足案分(高望みをせず、自分の境遇を受け容れること)、信心とはそういうものだろう。そしてコメンテーターは、この信心をまったく理解していない。拝金主義といって間違いなら、そこには能力主義まるだしのエリート面のおっさんがあった。

 どちらの顔のほうが幸福そうに見えたかは、いうまでもないでしょう。



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エゴの消えた音楽
2011年11月07日



 素朴な言葉が降ってきて、それが自分の心の池にたしかにポチャリと落ちて、そのあとはただ静かな時間がしばらく続いたまま、急にその言葉が自分の浮力で、心の池に現れることがある。
日本を代表するブルース・バンド「憂歌団」のリード・ギターリストだった内田勘太郎さんの姿を、久しぶりにテレビで観た。朴訥としたしゃべり方は、98年に憂歌団を冬眠させてから移住することになった沖縄の土地がよほど合っているのか、その朴訥さのうえにさらにまろやかさのような磨きさえ感じられた。
番組のなかで彼は、客席にいるひとりから質問を受ける。ひとり(ソロ)になってみて、変わったことは何ですか。
すると勘太郎さんは「う〜ん」という顔をしてみせ、でもその回答しか自分のなかにはないことを誰よりも理解しているので、こう答える。
「(ボーカルの)木村くんに対して、歌いにくいことをしかけていたことが、多々あるんだろうと少し反省しました。自分がソロになってみて、そのことに気がついたんです。うたが歌いやすいギターではなかったかもしれないと」
「少し反省した」というのは、よほど身に染みて堪えたということだろう。ギターを弾きながら自分でも歌うようになって、それまでのギターのスタイルではまず、自分自身がこなせない、うたいづらいことを発見してしまったからだ。木村くんだからこなしていたが、オレはいったい何をしていたのだろうかという、大人だからできる「小さな反省」。

 そして彼は、バンドを組んでいるという別の客に、やはり言葉少なに朴訥に語る。
「合奏するときにいちばん大事なことは、聴くことなんです。自分の音はもちろんだけれど、一緒にいるそれぞれが出している音を聴いてみることです。せっかくなんだから」

 そのような合奏からはやがてエゴが消えてゆき、ごく小さな音でも互いが反応しあえる空間が生まれる。そうすると、もはやリーダーはいなくなる。最初は誰かがリードを取っていたはずなのだが、聴いてみるといつしかそれは合奏の相手に渡されていて、誰がリーダーなのかがもはやわからなくなり、何よりもまず彼ら自身がとてもコミュニケーションを楽しんでいる。それをただ、聴く側として僕らが受けとめる。
「オレがオレがじゃなくて。自分なんて自然に出るから。人の音を聴いてみましょう」

 自然に出る自分というのは、もちろんエゴの消えた自分である。形容矛盾というか、何だか禅問答のようでもあるけれど、楽器を手にしている者たちがひとしく同じ空間のなかに入ってそれを共有してみないと、こういう発言は出て来ない。今日の演奏は上手くいったとか、そのような次元の話ではない。

 相手がいる。その人はどんな音を出しているのか。そうか、わかったという合図の音を送る。すると向こうから、ありがとうねという音が帰ってくる。いやいやこちらこそ、という音をさらに繰り出して、エゴのない演奏は誰かが自然にやめるまで続くのだ。



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住んでいたかもしれない、いくつかの部屋
2011年10月24日



 昼すぎの空いた電車に乗っていたとき、停車した駅からひとりの青年が現れ、そして僕のまえにすわった。彼は手にしている情報誌のようなものを開き始め、熱心に目を通していった。僕は、電車のなかでは本を読むくらいしか他にはすることがないので、彼の様子を眺めてみようと思った。

 青年が頁を繰っている小冊子はどうやら、住宅情報のフリーペーパーのようだった。そのような冊子が何種類も並んでいるラックから彼はそれを選りだし、いま偶然に僕のまえにいる。

 専門誌やネットに比べれば、小冊子の情報量などたかが知れているだろう。しかし彼は食い入るようにそれを読みあさり、ところどころにボールペンのしるしを付けていた。これから住むことになる、おそらくは自分だけの部屋を、主に間取り図を頼りに絞りこんでゆく作業だ。そしてさいごまで候補に残された幾つかの部屋は、記憶にも残らずにそのまま除外されていくことになる。

 僕も彼と同じ年齢のころに、やはり同じことをしていた。当時インターネットは社会にまったく普及していなく、好況だったこともあって、住宅情報の専門誌は昔の電話帳のように分厚かった。それでも無料みたいな値段だった。何センチもある情報の大半は最初から必要ではなく、おそらくは自分が住むことになるであろう沿線の頁だけを抜き出して、電車のなかで飽くこともなく見つめた。

 最終的に絞られたさまざまな部屋は、それぞれに甲乙つけがたく魅力的だった。簡潔に描かれた間取りを小さな図面で目にしているだけなのだから、実際に使い勝手がいいかどうかはわからないけれど、それぞれの部屋は僕の想像のなかで小さな夢のように次々とひろがった。

 部屋を選びそこに住むという本来の目的を超えて、たくさんの間取りを目にしてゆくことじたいが、やがて自分のなかで趣味のように目的化していった。部屋を選ぶために情報誌を手にするのではなく、たくさんの部屋に出会うために今日もまた頁を開く。そしてそこには、部屋をめぐるいくつもの地域や生活ぶりが、想像のかけらのように散りばめられていた。

 慎重を期したということではなく、そんな想像のひろがりを楽しんでいるうちに3ヶ月が過ぎ、いよいよひとつの部屋に絞らなければならなくなった。ささやかだけれど自分の場所を持つという夢を実現させるよろこびよりも、いままで出会ってきた部屋たちや沿線の様々な駅の様子を、自分のなかから振り払うことのほうが、別れのようにせつなかった。

 あのときあの会社ではなく別の会社に入っていたらだとか、あの人とではなく別の人と交際をしていたらと考えることは、僕の場合ほとんどない。進行中の現在が目のまえにあって、あったかもしれない別の可能性は、記憶の彼方ではなかったことのように消えかかっている。

 しかし、結局は住むことのなかったいくつもの部屋については、想像をめぐらせてしまうことがある。自分はあのときなぜ、最終的にあの部屋を選んだのか。別の部屋で暮らしていたら、そこにはどんな生活が待っていたことだろう。
もちろん自分が選んだ部屋には、充分に満足することができた。しかしそれは現実となった瞬間に、夢を想いひろげる対象ではなくなった。そして選ばれなかった別の部屋では、まったく見知らぬ人が生活をしていて、それをうかがい知る手立ては何ひとつない。どこかの街で偶然にすれ違ったとしても、お互いにまったく気づくことのないふたりが、そこにいる。

 




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耳の性能
2011年10月10日



 耳がよすぎて困っている。とにかく何から何まで、聞きたくもないのにいろいろなものが聞こえてしまうのだ。

 たとえば野球場へ行く。外野に席を取り、応援の音を間近に耳にしながら、それでも後列にすわる人たちの会話が、その列の端のほうまではっきりと聞き取れる。賑わっている居酒屋でも事態は同じだ。遠くのテーブルにいるあのおっさんやら、あっちの席にすわるあのOLやらの会話が、なぜだか明瞭に耳に飛びこんでくる。こうなると逆に差し向かいにすわる友人の声が聞き取りにくくなり、落ち着かないこと甚だしい。

 言葉も移ってしまう。年になんどか沖縄へ通ううちに、最初は外国語としか思えなかったあの沖縄の言葉が解せるばかりではなく、普通に喋れるようになってしまった。中年・若者はおろか、昔の言葉を繰り出す老人の話まで聞き取れる始末だ。
そして何日かを沖縄で過ごしたあとが、また手に負えない。向こうの言葉が完全に乗り移ってしまっていて、せっかく地元に戻ってなじみの店に顔を出しても、「くぬ魚ぐゎーでーじまーさんどぉ」などという意味不明の言葉が口をついて出る(この魚はとても美味しいという意味です)。
時差ぼけと同じで帰って来てからのほうがなかなか大変で、いわゆる標準語の世界に耳を慣らすのに1週間近くはかかる。

 さらに厄介なのは関西弁である。たった1泊2日なのに京都へ取材で行っていた僕は、ひとりでいたこともあってひたすら京都の言葉を受け身で耳にすることになり、帰りの新幹線でえらい目に遇った。頭のなかで繰り出される言葉のすべてが、京都弁に染まっているのだ。自分で考えごとをするその言葉もなぜか京都弁、ぼんやりとしていてふと何かを思い出すときの言葉も京都弁。ある意味では沖縄の言葉よりも関西の言葉のほうがイントネーションがきついから、耳にまとわりついてまったく離れてくれない。

 こうなるともう、アイデンティティ崩壊の危機感すら覚える。決して大げさな話ではない。考えごとをしたり物思いをしたりするときの、頭のなかのその言葉が、本来の自分が使っている言葉ではないのだから。帰りの新幹線では、1分でも早く新横浜に着いてくれないかと、そればかり祈っていた。話し相手がいない旅だったので、いつもの言葉の世界に戻らないと、頭のなかの京都弁に支配されたまま苦しくてしかたがないのだ。

 その後京都取材の打ち合わせの席で、うっかり京都の言葉を延々と喋ってしまった。最初は無意識だったのだが、報告をしているうちに京都の風景や会った人々の顔や声が思い出されて、気がつくともう止められないほどに京都弁をがんがんに使っていた。そのときに同席していた人物から、「いやあコマザワさんの関西弁は完璧ですね」と、お褒めの言葉をいただいた。そのときになって初めて、その人物が大阪の岸和田出身であることを思い出した。岸和田出のあんちゃんに太鼓判を押されたのだから、僕の使う京都弁は、よほど自然であったのだろう。

 だというのに楽器が弾けない。ギターやベース、ウクレレくらいなら、素人レベルとして何とかなるが、ギターの複雑なコードやピアノの鍵盤となると、何がなんだかわからなくなる。これだけ耳がよくて、自分で言うのも何だけれどそれなりに音楽にも精通しているというのに、その能力や知識を使う技術がまったくないのだ。こうなるともう、本当は人間の話す言葉をすべて理解している犬みたいなものである。

 耳の性能というのは、ひとたび自覚するとどんどんと良くなる。これは外国語が急に喋れるようになるのと同じで、「自分はひとよりも耳がいいようだ」と気づいたときから、年齢に関係なくいくらでも向上していく。

 この性能をじかに音楽に使えないのなら、小説に活かすしかないだろうなと思っている。どこの言葉であれ登場人物が頭のなかで喋り出すとき、その声につられて物語が紡がれていくのだから。



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完璧すぎる部屋
2011年09月19日



「ホームパーティ」などというものに、まだ時々呼ばれてしまう。可能なかぎりご遠慮したく、それとなくオーラを発しているつもりなのだが、それでも断れないときがある。人の集まりそのものを決して咎めているわけではないので、では参加します、という返答にやがては追いこまれる。つまりは誘う側が、こちらの気配を察してくれないというだけのことだ。

 いくつかのご自宅を拝見してみると、そこに際立った特徴がひとつある。「どの部屋も完璧に片付いている」か、「片付いてはいるが生活の匂いもする」かの、どちらかにしか二分されないということだ。そして不思議だと思うのは、前者のお宅である。

 人を呼んでいるのだから、普段よりも綺麗にしてあるのは当然としても、前者の方々のお宅というのは、そこに住んでいるという気配がほとんどしないのだ。カーテンの色や柄からテーブルのセッティング、その他調度品などまで、まるでホテルの一室のようだ。おそらくは、泊まったことのある海外のホテルや、雑誌に掲載されている写真などを参照しているのだろうが、潔癖というよりもそこにはあまりにも隙がなく、本当にセンスがいいとはこのようなことだろうかと、だんだんと怪しい気持ちになってきてしまう。

 人を呼んだり、そのことで人に見られたりすることを、そこの住人は特に意識しているのではない。むしろ、自分の住まいはこのようでなければ嫌だ、朝起きたらここが気になった、生活の価値観が投影された装飾とは、などと洗練を重ねていくうちに、ほぼ完璧な次元にまで行き着いてしまったのだろうと思う。しかし問題や疑問があるのは、特にここではない。洗練が重ねられてゆくその過程において、すべての無駄が同時に取り払われていったという、思考法そのものに若干の疑問を感じてしまう。

 居心地のいい空間とは、決して無駄のない完璧な思考から生まれるものではない。おそらくはその逆で、どのような無駄を残しているかにこそ、住人の本当のセンスが現れるはずだ。それは引き算でもなければ、足し算でもない。調度品や布などから生み出される、その場の「空気」とか「気配」を、住む本人が読み切れているかどうか。

 部屋が主役になってしまっているお宅では、そこの住人は何かの犠牲者のようにも感じる。部屋の犠牲ということではもちろんなく、かような部屋にいたることになったすべての情報、消費、世間、大げさに言えば生き方に対して、その人は気づかぬうちに主人の座を明け渡し、下座であることを証明してみせてしまっている。




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風を送る
2011年09月05日



 日頃のふとした会話に、どこか風情がなくなってきている(と思うのは歳のせいだろうか)。

今日は暑かったとか寒かったとかいうのは、少々の愚痴を兼ねた共感を誘う挨拶の代わりであって、特にそれ以上でも以下でもない。それはそれとして、「今日は夕方から涼しい風が吹いた」とか「夕焼けがことのほか美しかった」などといった、季節や身近な自然をめぐる自分の想いや感想を耳にする機会が、本当に少なくなったように感じる。いつからそんなに少なくなったのかはわからないが、気がついてみると、そういうことを口にする人が予想以上に少なくなっている。京都だと、そんなこともないのだろうけれど。

話題に上がらなくなったのは、それが共通認識として受け取られなくなった状況に重ねて、それぞれの本人たちがそのようなことを経験していなかったり、経験していても眼中に入らなくなったりしているからだろう。
暑い日が続くこの頃も晩はすっかり秋めいてきて、鈴虫の鳴く声が聞こえている(コオロギはまだこれからだろう)。そんなことを想いながら近場のワイン・バーに行って、もう秋だ虫が鳴いていると伝えたら、素っ頓狂な顔をされた。何言い出すんですか、いきなり虫って何ですか、というような顔つきだった。

いや、鳴いているんだよ。それを聴きながらここまで歩いてきた、と言うと、彼は店の外に出て「あ、ほんとですね」という。ようやく会話がかみ合った。言われればわかるし、それが唐突だと感じても、自分でも体験してみれば同様に感ずることはできるのだ。

風鈴の音がうるさいと言って、隣室に文句を言いに行く者もいる。耳の感性がもはやこのように外国人並みになってしまった人は例外としても、日常から風情とか情緒とかいったものを排除していってしまったら、何が残るというのか。何かそれ以上に、特別に面白いことでもあるのだろうか。

京町家に夏の工夫が情緒豊かにほどこされているのは、油照りの日中があまりにもやり切れないからで、つまり面白いことが日常にないから、彼らはお金をさほどかけない知恵をもって、むしろ日常を忘れるためにそれを加味した。だから風情を感じなくなってしまったら、あとの日常などたいして面白くないに決まっているのだと、少なくとも僕は思う。

たいして面白くもないのに、多少は面白いようなふりをして生活を続けていると、だから本当にどんどんつまらなくなってくるはずだ。いつの間にか心に余裕がなくなり、目や耳に入るものも入らなくなり、ふとした季節の情緒にも気づかないようになって、そこには「自分だけ」という見事な壁がたちはだかる。

溢れる情報ばかりに気を取られていないで、ほんの一瞬でも、自分の感覚を開いてみたい。そのことによってラクになるのはむしろ自分で、他者にもやがていい風を送ることができる。



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Fool on the Hill
2011年08月22日



 自分は読者たちの最前列にいる、という言い方を、編集者はしばしば好んで用いる。あくまでも個人的な感触でしかないけれど、そのように自分に言い聞かせている編集者は、かなり多いのではないかと思う。
「最前列」というのは、自分が客席のいちばんまえ、そして中央に位置する、というイメージだろう。したがってこのイメージのなかでは、書く側は最初から壇上に上げられており、このことに多くの編集者はほとんど疑問を持たない。自分は普通・一般、書く側はそうではない、という断定だ。

 ここに疑念を抱かないかぎり、書き手と読者はもっとも離れた位置にあるという観念が、ほぼ自動的に設定される。書き手は特殊であり、自分は出版社の勤め人であることもあって、その間を取り次ぐのがひとつの役割だ、ということだ。書き手は何をしでかすかわからないこともあるから、ときには自分がその調整をしなければ、という意識もそこにはあるだろう。ここまで来ると、一見したところ正論のようにも思えるこのイメージは、一種の偏見ではないだろうか、そうでなければ自己弁護なのでは、とも思えてくる。

 このとき編集者は、「読者」という言葉にどのような意識を向けているのだろう。勤め人だとはいうが、大手出版社に勤める社員の収入は、一般のそれをはるかに上回る。しかも一般職などと違って、作家との打ち合わせのために、彼らは自由に領収書を切ることができる。もちろんそこには人数までは記載されていないから、ひとりで好みの店へ行ったときでも、同様のことができる。

 ところが書き手の多くはたとえ売れっ子であったとしても、飲食に派手な散財はあまりしない。ごく普通の、どちらかといえば地味な毎日を送っている。書くことは相当に体力を奪うから、体調の管理もまた仕事のうちだ。そしてごく普通の服を着て大衆的な酒場へ向かい、客たちの会話を何となく耳にしたりしている。そのまま参考になることはないけれど、ふと気になることがあったら、その場でメモに書き留める。しかし本をつくっているはずの編集者の多くは、決してこのようなことなどしてはいない。だから彼らが「読者」という言葉を口にするとき、それは誰なのだろうといつも不思議に感じる。

 逆に「読者」という言い方をほとんど用いない編集者も、多数ではないが一方にはいる。彼らは作家に寄り添い、受け取った原稿を隅々まで吟味し、書き手が何を読者に伝えようとしているのかということを、書き手本人以上に理解しようと努める。校正で多くの朱が入ることがあるとするなら、それは文章に正確さを期す以上に、より伝わるように流れをよくするという意識が向けられているはずだ。
「読者」という言葉を安易に用いない編集者は、書き手は壇上にあるのではないことを、実感として理解している。書き手もひとりの人間であり、日常をよく観察していることを、受け取った原稿の端々から感じ取っている。
自分が書き手と読者をつなぐのではなく、とっくに書き手は読者とつながっており、そのつながりをもっともスムースな流れへと整理・強化するのが、自分の役割だと認識している。

 どちらのタイプがより強い信念を持った編集者であるかは、もはや言うまでもないだろう。



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itabashi
駒沢敏器(こまざわ・としき)

1961年、東京生まれ。雑誌編集者を経て、現在は作家・翻訳業。横浜郊外の私鉄沿線に在住。米軍基地が多く存在する国道16号線エリアで育ったため、フェンスを見るとどうしても懐かしく感じる。ということで、ラジオの音はAMにかぎると思っている。FEN漬けの子供時代だったから。
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