サイさんの上海 (一)〜蘇州寒山寺はただそこに建つ〜


「ワタシ、サイ、と申します。ドォゾ宜しくお願いシマス。」

そう言ってペコリと頭を下げたのは30代後半と思しき痩せ形の、小柄な女性だった。
「サ」と「イ」の間に小さな「ァ」が入ったような、強い調子の「サイ」の発音。
午前8時のホテルのロビーは寒々として静かだ。サイさんの「サァイ」が高い天井にことさら響いた。
このロビーには私たちと同様、日帰りツアーのコンダクターと待ち合わせていると思われる人々が大人しく迎えを待っている。

年が明けた正月2日、私と夫は上海での最終日を迎えていた。年末からの滞在で大都市の賑わいにきっと疲れているだろう、最後の日は都市から少し離れた景勝地、蘇州と周荘に足を延ばしてみようと、予め現地旅行会社に申し込んでいたのだった。

実際私たちは疲れていた。それは想像していた都市のざわめきにというよりも、大陸の乾いた寒気にと、その寒さを同じように寒いと感じないらしい上海人たちとの隔たりに、疲れていたのだった。気温は氷点下3度くらいということだが、氷のような空気は皮膚を突き抜け体温を奪い続けるようだった。着込んでも着込んでも自分が氷柱のようになってゆくこの感覚から逃れられない。

「マズ、蘇州に行きマス。上海からは混んでなければ1時間くらいデス。今日はこのツアー、シマダさんたちダケですのでクツロイデください」
寛いでくださいと言う割には、バンの車中でサイさんは助手席から斜めに体をひねってずっと話しかけてくれる。早口、というか単語と単語ののりしろが極端に少ないしゃぺり方で、後方に過ぎてゆく上海の街を、ビルを、目に入るもの全てを、サイさんはひとつも逃したくないようだった。

シマダさんたち初めてですか上海、そうですか随分変わったでしょう上海は、万博があって急に変わりましたあそこに見えてる建物上海でイチバン大きな塔デスネ上海環球金融中心登りましたかそうですか、今年の中国では日本のオショーガツは2連休デスネ中国は旧ショーガツの方が活気アリマスだから今日ワタシ働いててもアマリ寂しくありません、ソウソウこの高速ドウロもスゴク整備されたデモ日本はETCですか上海マダですがもうすぐ導入するそうですああそこに見えるのは上海の・・・

処理能力が旧タイプである私の頭はすぐにパンパンになってしまうのだ。サイさんは頭のいいひとなんだなあと感心しながらも、相槌を打つのにも少々疲れた私は隣で早々に眠りこけている夫をサイさんに見られないよう睨みつけた。



「お疲れ様デシタ、蘇州寒山寺到着デス」と言われ車を降りた。
が、そこには、一本、真新しく舗装された通りがまっすぐに伸びており、周りにはなんだかこれも新しい木の匂いがまだ嗅ぎとれそうな建物ばかりが並んでいた。それは寒山寺に至る歩道だった。

「サイさん、ここは? 新しいのですか」
「ハイ、整備しました。建物も上海万博に合わせて改築したものが多いですからとてもキレイデス」
そうこともなげに言ってからサイさんは人混みを分けるようにせかせかと前へ進んでゆく。私にとっては意外だったがこの寒さにも拘わらず蘇州は観光客でごった返していた。

「ドォゾ、シマダさんたち、こちらデス」

案内された先にはレモン色に塗り染められた塀。そして「寒山寺」の文字。文字の前には記念撮影しようと人々がわいのわいのと列をなしていた。

この蘇州の寒山寺は502〜519年に創建とのこと。さあさこちらデスよ、とサイさんが嬉しそうに手招きする。寺の端のそこには、木の塀と庇にかばわれるように、背丈くらいの石碑がガラスで覆われ立っていた。

こんな場所で無知を公言するようで恥ずかしいが私はこの有名な拓本の前に立ってもしばらくきょとんとしていた。アーあなたも知らないですか、とサイさんが寂しく笑ったので、ここが大抵の人のお目当てだと分かった。この寺は張継(ちょうけい)という人の「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」という詩によって広く知られているのだそうだ。

サイさんによると、日本の昔の教科書には必ず載っていて、ある年齢以上の日本人を案内するとみんな懐かしんで喜ぶそうだが今はあまり採用されておらず若い人の反応はいまひとつだとか。サイさんの拍子抜けした顔を思い出しながら後で少し調べてみた。せっかくだからここにひいてみよう。漢詩の好きな人はきっとよく知っていると思う。


「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」 張継

月落ち烏啼いて霜天に満つ (つきおち からすないて しもてんにみつ)
江楓漁火愁眠に対す (こうふうぎょか しゅうみんにたいす)
姑蘇城外の寒山寺 (こそじょうがいのかんざんじ)
夜半の鐘声客船に至る (やはんのしょうせい かくせんにいたる)

≪月は西に落ちて烏が啼き、霜の気は天に満ちている 川岸の楓の間には漁火が見え旅愁のために熟睡できない私の目に映る そのとき姑蘇城外の寒山寺の夜半を知らせる鐘の音が 私の乗る船にまで届いて来た≫


さてこの寒山寺、風光明媚とまではいかないだろうがせめて異国の古の情緒くらいは感じられるかと期待していたのだが、この、いかにも観光客用に整備された古寺からは「夜半の鐘声(しょうせい)」は聞こえてきそうもないのだ。

サイさんは、何十回何百回もここをガイドしてきたのだろう、豊富な知識と流暢な説明で境内を隈なく案内してくれる。そこかしこでデジカメを構えた一団がきゃっきゃっとはしゃぎながらピースサインをポーズを決めている。10代らしきグループは仲間同士の会話により熱心だ。
そんな人の流れに沿って境内を歩きながら、サイさんに聞いた。
「サイさんはずっと上海?」
「ハイ、上海で生まれました。上海、そうですね、ウン、好きデスね。これからもっと上海は良くなりますヨ。」
「ここにいる観光客も、上海から来た人たちなの?」
「上海の人たちもいますが、ほとんどは中国全土からやって来ます。寒山寺有名デスから。田舎から連休を使ってやって来ます。今、日本人は少ないデス。」
「ふうん」

流れるようなサイさんの会話が急に止まり、すこし考えてから静かにこう言った。

「ウルサイね、ニギヤカデスね。でもね、今中国は発展の途中デス。みんな少しずつお金できてきました。すごく田舎からも旅行する余裕が出てきました。」

それがいけませんか?と聞かれているようで、私はきまり悪くなってしまった。どこかで、素朴な中国を求めていた自分がいたのを指摘された気分だった。素朴な何かなんて、旅人の勝手な願望でしかないことを知っていたはずなのに。古刹の、有名である所以すら知らずに訪れる私に、何を言う資格があろうか。

向こうのほうからはどやどやと、ひときわ大きな笑い声が聞こえていた。











クリスマスの値段


一番古いクリスマスの記憶は、3歳か4歳くらいの、布団の中だと思う。

寝かしつけられた暗い部屋。私の枕元に父と母が立っている。私は目を瞑って、寝たふりをする。ひそひそ話し合う二人の声。枕の横に何か置かれた気配。そうっと目を開けると、部屋を出て行く父母の後ろ姿が見えた。

そこで記憶は途切れる。そのプレゼントが何だったのかもう忘れてしまったけれど、暗がりを射す廊下からの光に揺らめく両親のあの大きな二つの影。私を、何者も恐れる必要はないのだという、果てしない安心感で包んだ安らかなあの気持ち、それは今も胸の中にある。


母が父と離婚したのは私と、2歳離れた兄とがまだ小学校の低学年のころだった。私たち兄妹は、両親が離れてしまったのだということは理解したものの、あまりに幼すぎてただただそこにある状況を受け入れるのみだった。母はその後も苗字を戻さずに親戚もない愛知県豊橋市で職を見つけ、働いて私たち兄妹を育てた。

それから何年か経ち、私は小学校3年生になっていた。そしていつの間にか、悲しまくなっていた。クリスマスだってお正月だって親子3人。そういうものだと思うようになっていた。

その頃、小ぢんまりした豊橋市の駅前にはいくつかのデパートや、本屋やレコード屋や雑貨屋がごちゃごちゃと入っている商業ビルなどがあった。その中の、『メイホウ』という古いビルの3階にあったファンシーショップの、私はクッションが欲しくて欲しくて仕方がなかった。それは、子供が一抱えできるくらいの大きさの、珍妙な、黄色い公衆電話の形をしたクッションだった。本体と受話器が外れるようになっていて英語で「TELEPHONE」と書いてあったと思う。今となってはなぜあんな奇妙な物体を欲しいと思ったのかは本人でさえ理解に苦しむが、とにかく欲しくてほとんど毎週、店に見に通ったのだった。

価格は3,500円だった。

「ねえねえママ、クリスマスね、欲しいものがあるの。『メイホウ』のお店の、黄色い電話の形したクッション。すっごくかわいくて、おしゃれで・・・」
滔々としゃべり続けてその年のクリスマスに母にそれをねだったのだった。母は、じっと私の顔を見て聞いていた。そして、
「それが本当に欲しいの?」
と少し考えた後で問いかけた。

「欲しい!あれがいいの!たったの3,500円だよ、安いよね、ね?ママ」
私はほとんど固唾を呑んで母の返事を待った。

何かをねだるという行為をそれまではする必要がなかった。小3の少女にはそもそも大きな金額の物が欲しいなんて思いつきもしないし、母は文具や本については必要ならば黙って買ってくれていた。だから3,500円が安いかどうかなんて本当は分かっていなかった。

母はしばらく眉間を閉じたり開いたりして考えていたようだったがとうとう、「いいよ、じゃあそれを買おうか」
と言った。笑っているような困っているような表情だった。

私の喜びようといったらなかったと思う。母を急かして次の母の休みに腕を引っ張って店に連れて行き、その、黄色い公衆電話をぎゅうと抱きしめた。母は「ふうん」と珍しそうにそれを眺めて、レジで3,500円を払ってくれた。包装はクリスマス用だった。

クリスマスに、そのクッションは私の部屋にめでたく置かれた。嬉しくて、しばらくはそれに抱きついたりもたれたり2,3歩離れて眺めてみたりしたものだった。ふっと母の方に目を向けると、そんな私を遠くから静かに笑って見ているのだった。二十数年前のクリスマス。



それから随分経って、母から、実はあの当時我が家は毎月の料金が払えずに電話も一時止められていたのだと聞いた。特に我々の幼い頃本当に金銭的にも大変な時期があったという。あの3,500円は、搾り出すようなお金だったのだ。

そうなんだ・・・、ごめん、そんなだったんだ、知らなかった・・・とショックを受ける私に、母は、
「そりゃそうよぉ、気付かせないようにしていたからねー」
そんなことで萎縮して生きるような子供になって欲しくなかったから、でもまあなんとかなるものよねえ、と言って60代になった母はカラカラと笑うのだった。

私はこれまでずっと、そんなことを微塵も感じなくてすむよう包まれてきたのだと、今さらながら思い知った。

実際の電話代に事欠くこともあった母に、奇妙な公衆電話の、場違いなくらい派手な黄色いクッションをねだっていたのだ。私は、なんて、にぶい子供だったのだろう。


今日はクリスマスイブ。母は当時いつも、仕事場にあるスーパーのケーキをホールで買って帰って来た。夜になると少し安くなるあのケーキ。白い生クリームをフォークですくってそれはそれは美味しそうに食べていた。そして、
「あー幸せ」
とおどけて言うのだった。今、もっと凝ったようなケーキを送ろうかと聞いても、これがいいんだときまってそう答える。

クッションを抱える私を遠くで見ていた母の姿。そしてその姿は、もっとずっと以前の、両親そろった後ろ姿の思い出となんら変わることなく、温かで大きくて、無限の安心感でいつまでも私を包んでくれている。

毎年やって来るクリスマス。私はあの3,500円に、胸がいっぱいになる。どんなにキラキラしたクリスマスが来ても、お金のかかったクリスマスが来ても、私にとって、あの、黄色い変てこりんな電話のクッションを買ってもらった年のクリスマスは、ずっと特別だ。

そして母はきっと今も、「あー幸せ」といいながらスーパーのケーキを、真っ白い生クリームで覆われた大きなクリスマスケーキを、ほおばっているのだろう。











理不尽な背中


私は、赤ちょうちんとか一杯飲み屋とかをこよなく愛する女であるが、たまにはお洒落な店にだって行く。そんな時はちょっと姿勢を正して、行儀よくしたりする。
決して、
「すみませーん、おじさーん、もう一杯〜〜〜おねがいしまあああす」
などと空のコップを高らかに掲げて大声でカウンターに話しかけたりしない。

ましてやお代わりを注ぎに来てくれている若いスタッフをつかまえて、
「ね、ね、ね、マスターには黙ってるからもう少し足して足して♪大丈夫バレないから!」
などと脅して籠絡などしたりしない・・・よう気をつけている。

トイレに立つときだって酔っ払ってても極力まっすぐ静かに歩くよう意識するし、万万が一むこうずねを机にしたたかぶつけたとしても、ホントは「ぎゃおううううううう」と叫びたいところだが「イタッ・・・」くらいに上品に収めるように心がけている。

まあ言い換えればお洒落でない店ではこれをそのまんまやってるということなのだが。こんな私でもちゃんとした店ではそれなりでいる。


さて先日のこと。後輩の女性アナウンサーと二人で麻布十番の、洒落た店に行った。洒落た、と言ってもお酒を出すお店なので基本的にはワイワイしている。ただ、ほんのり暗くて照明とか全体のつくりとかが「大人」の雰囲気でなのある。私たちはカウンターでビール→シャンパン→白ワインと、大人を楽しく満喫していた。

ところが、しばらくすると視界に盛んに動き回る物体が現れ始めた。走る、飛ぶ、回る・・・さらには「ぎゃはぎゃはぎゃは〜〜」という奇声も聞こえてくる。それは、少し離れたテーブル席にいたはずの、4歳くらいの男の子なのだ。保護者とみられる20〜30代の男女3人は話に夢中の様子。この傍若無人な有様を見ても全然お構いなしである。

これには店の人も困っていたようで、時折は男の子にやんわりと「席に戻ろうね」、というように促していた。しかしこの小鬼はまーったく言うことを聞かない、どころかエスカレートして店中を飛び回っているのだ。

ところで私は、こう見えて、子供は結構好きな方である。 しかし、子供が好きであることと自分の分をわきまえることを知らせることとは違うと思っている。そこで、この小鬼が近くでうろちょろしているときをとらえて、
「しーーーっ!うるさいよ。静かにしなさい。」
と低めの声で言い、キッと睨んだ。さあ、これでもう席に戻るだろう。

と、こ、ろ、が、である。

自分の過去を振り返ってみれば大人に睨まれ、注意されることは厳然として〈怖いこと〉であった。悲しいやら怯えるやら、まあとにかくそんな感情でいっぱいになって、すごすごと親のもとへと帰って行ったものだ。しかしこのガ・・・子供は、あろうことか、全神経を顔面に集中させて世にも醜く恐ろしい顔で睨みかえしてきたのである!

「席に戻りなさい」と再び私。

無言のまま、ますます睨みかえす子供。昔「チャッキー」っていう怖いアメリカ映画があったがまさにその豹変したチャッキー人形みたいな顔でギリギリ睨みつけるのだ。

そのうちにようやく気付いた保護者の一人がやってきて、
「騒いじゃダァメ。、さ、さ」
などと言って手を引いて戻っていったが、手を引かれてく間もア奴は睨み続けていたのだった。

これって、恐ろしくないか?きっとあの子はこれまでの人生(4年くらい)で一度も大人に怒られたことがないのであろう。なんという理不尽なことを言う奴だ、と腹立たしさでいっぱいになったのであろう。なぜ楽しいことを邪魔されなければならないのか、と。

しかしこの「理不尽」という思いは、社会で生きていくうえで自分の好きなことだけしていくことはできないしルールというものがあるのだということを体と心で知る、とても大切な感情だと思う。それを、すっとばしてこれからも成長を続けていくのを想像すると、なんとも空恐ろしい思いに駆られてしまうのである。

彼のせいか?
そうではないだろう。睨みながら生まれてくる子供なんていない。

責任を負うのって、とっても骨が折れる。放っといてなんとかなるなら、誰もそんな苦労はしたくないに決まってる。子供のことだけじゃないかもしれない、みんな、面倒くさいことは避けたいし良い人でいたい。私だってそう。
だけど、だけど、子供のころの私をどなりつけてくれた数々の大人たち、そんな人たちの思いを、私は無駄にしてはいけないと思い始めている。時に気恥ずかしかったり、他の人がやればいいのにと思ったりしながら、向き合わなくてはならないのは本当は自分自身だと思い始めている。

あの数々の大人たちの背中は広くて大きかったなあ。
















  


津軽〜三厩(みんまや)でひらめになって


これは私にとってかなり計算外だった。
こう言っては竜飛に(たっぴ)に失礼かも知れないが、この北の果ての数件の宿がみな満室だったのだ。
宿と言ってももそれぞれ4部屋とか5部屋くらいしかない小ぢんまりした民宿なのだが、
尋ねるところ尋ねるところ全てで、
「あ、いっぱい」
みたいなことを、津軽アクセントで、しかも非常に淡々と言われてしまった。北の言葉は手っ取り早い。津軽の最北端は釣り人で実は賑わっていたのだった。通りには人っ子一人いないのだが。

そこで竜飛での投宿は諦めることにした。海岸に沿って車で10分ほど下り、三厩(みんまや)という小さな港の民宿でようやく、ひと部屋空きを見つけることができた。小さなこの民宿もこれで満室だという。

この民宿では4つほどある各部屋にそれぞれ魚の名前がついていて、私の今夜の城は「ひらめ」だった。夕飯まではもう少し待ってねと案内された「ひらめ」の、たてつけのあまり良くないドアを開けると大きな石油ストーブがおいてある。それがこの六畳一間の唯一の備品のようだった。
石油ストーブを自分で操作するなんて20年ぶりくらいのことだろうか。どうやるんだっけとこわごわスイッチ押をしてみる。チチチチという準備の音が聞こえてきて急に石油のにおいが広がってきた。このまま爆発したりしないでしょうね、などと不安になりながらしばらく息を止めていたらボウッという点火の音とともに明るい炎が顔じゅうを照らした。

あったかいねえ。炎は、本当にあったかい、とエアコンに慣れていた私はすっかり自分の仕事と結果に感激してしまった。
そして畳の上に大の字の開きになってみる。ひらめのように。

この三厩という場所は、800年ほど前、源義経が兄頼朝の追手から逃げ蝦夷に渡ろうと寄った伝説に由来すると、手にしたパンフレットに書いてある。なにかが引っ掛かった。義経、海・・・。

ああそうだ、私は10年前、同じように日本海に面した岸辺で、同じように義経都落ちの伝説のある海辺の民宿に泊まったことがあるのだ。ジリジリとストーブに照らされる頬の感触とともに突然思い出した。

そこは新潟県の海沿いの、本当に何もない、特色のない集落で、濁った波が岩だらけの海岸を仕方なさそうに打ちつけているような場所だった。そしてその当時の私はひどく疲れていて、だからなのか私はその中でも特に寂しい民宿を選んだ。

宿にはほかに客もいなくて、50に少し届かないくらいのおじさんが、突然の宿泊にもかかわらずあり合わせのもので夕飯を作ってくれた。それは魚の煮つけで思いのほか美味しかった。奥の方で声がする。母親と弟と、三人で細々とやっている宿屋らしかった。

食堂でビールを飲み干しお酒を飲ん頼んだら仕事を終えたおじさんが一緒に飲んでいいかと言って、机の向かいに腰をおろして飲み始めた。
杯が進んでくるとおじさんは、自分の母親は年老いていて、そして弟はもう幼いころから介護が必要なのだと独り言のように言った。
そうして、自分と長いこと付き合ってくれていた女性がいたが、何年か前にとうとう、別れてしまったのだよ、自分はこのままずっとここでこうして暮してゆくのかな、とそんなことを宙に尋ねてごくごくとお酒を飲み、薄く笑った。あんただって、二度とこんなとこに来ないんだろうし、と言った。私は、何と答えたか忘れてしまった。

私が今いるこの海と、あのおじさんの海は繋がっている。

私は民宿に泊まるのが好きだが、それはその何も知らない土地に少しだけ触れられるような気がするから。時には、何とも言えない気持ちになったりするけれど、まっさらな生活なんてどこにもないのだ。みんな懸命に生活するのだ。あの時ひどく疲れていた私は、おじさんのことでか自分のことでか、夜、布団の中でひとり泣いた。寂しさに打ち勝つ手段が見つからないことが、誰にも時にはある。
次の日、お酒を飲んでいないおじさんはとても寡黙だった。気をつけて、と小声で送ってくれた。


階下から夕飯の合図が聞こえてくる。ひらめは目覚めて二足歩行になる。
夕飯の席では、兄弟夫婦で秋田から遊びに来ていた60代の4人組と隣り合わせになり、よしみで随分日本酒をご馳走になった。子供たちが独立した今は毎年1回はこうして4人で色々なところに遊びに行くのだとういう。秋田のお酒のがうまいよ、ふふふと声をひそめいたずらっぽく笑って、秋田に来たら遊びにいらっしゃいと住所までいただいた。こういう出会いも、ある。

三厩でひらめになって、朝までぐっすり眠った。アルミのたらいで顔を洗ったのは、石油ストーブよりも古い昔だ。

翌朝の津軽は、曇っていた。
新潟の海も、秋田の海も、同じように曇っているだろうか。

今日は、海岸線を歩いてみよう。












竜飛(たっぴ)の闇に立ち尽くす


「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」

とは、太宰治氏の『津軽』の有名な本編の冒頭だが、私の場合はまるで恰好がつかない。

「ね、なぜ旅にでるの?」
「今月切れるマイルがあるからさ」

かろうじて席が取れたのは、新幹線全線開業を12月に控えた青森だけだった。
仕事以外では行ったことがない青森。その仕事だって、大抵の場合は物騒な事件だとかで
ずっと、現場周辺でそのことだけを考えてウロウロしていたりするのみだった。

その土地を訪れても自分で見ず感じなければ行っていないことと同じなのかもしれないなあと、最近強く思うようになってきた。上辺だけをツルツルすべることが多すぎるのかな。
数日後、私は青森に飛んでいた。


降下の傾きに目を覚まして寝ぼけ眼で窓の外を見ると、一面、赤茶けた樹木の大海原が広がっていた。決して派手な赤でない、しかし深く幾重にも層になった赤銅の山々。波打つ木々に飲み込まれるように青森空港に到着した。私は、これまでこんなに美しい飛行機の着陸を知らないし、こんなに深い秋の色も、知らなかった。
これが秋なのか。
「うわあ」と喉から自然に声が漏れて自分まで赤茶けたように感じた。

何の計画もなかったけれどレンタカーを借りて北上することに。
そういえばこういうの、とても久しぶりだ。いつも何かを決めて限られた時間で割合と効率的に動いて、それはそれでたくさんのことができるけれど、何も決めていないって、なんて贅沢な気分にさせてくれるのだろう。
そうだ、津軽半島の北端、竜飛を目指そう。何とはなしにそう思った。そして、なんだか、とてもワクワクする!

五所川原の駅のトイレでは、地元の女子高校生が二人、鏡の前でまつ毛を巻きながら飽きずにずっとおしゃべりしていた。私にもこんなときがあったんだろうなと思う。すでに寒い青森で短いスカートが若いなと思った。
観光案内所では係の男性が東京では考えられないくらいの悠長さと親切さで色々と説明してくれた。
「竜飛に行きます」と言ったら「日没が4時半です。夕日がすばらしいでのす。さあ急いで」と教えてくれた。あと2時間、間に合うだろうか。さあ急ごう。

五所川原を発ち国道をひたすら北上。
十三湖を左に見ながら傾く陽を追いかけるように車を走らせた。
そのうち突き当たった光景に私は、「うわあ」と今度は叫びにも似た声を何度も何度も搾り出してしまった。怖くて、叫ばずにはいられなかったのだ。

目の前に突如現れた日本海、それは私の想像をはるか超えていた。
膨大な鉛を溶かしたような重たい無数の波が、低く這いながらこちらに向かって不気味に前進し、それが奇岩奇岩に打ち砕かれて鋭く飛び散って消える。うねりがうねりを生んで、もう、どうしようもないくらい恐ろしいのだ。

私は初めて日本海というものを見た気がした。その海岸線を通り抜ける間、鉛に飲み込まれて浮きあがれない恐怖からどうしても逃れられなかった。


やがて到着した竜飛の湾は、それに較べたら随分穏やかに感じられた。釣り人が幾人も糸を垂らしている。

夕日にはほんの少し間に合わなかったけれど紫色の空に交差する海峡に私は惚けたように引き込まれた。この先には北海道だ。勿論この時には何も見えなかったけれど。

ふと振り返って背後の漁港の小さな集落に目をやった。家々が風と波から身を守るかのように支えあうように建っている。そしてもう一度海に顔を向けたのだが、この一瞬のうちに海はもう闇になっていた。
そうして、もう一度振り返ったら、今度は集落もすっかり闇に包まれてしまっていた。ほんの数秒で竜飛は色を変えていた。

都心に暮らしていたら決して出会えない、この闇。なんて、深いんだろうね。忘れていた。

集落には明りはほとんどない。その誰もいない寂しい通りを下を向いた初老の女性がひとり、10部ほどの新聞の束を抱え足早に歩いていた。漁師の奥さんかもしれない。そしてその支えあうような家々の中間にある小さな商店の扉をそうっと開き、抱えた束から抜き取った新聞を1部、無言で置いて扉を閉めた。そうしてまた前かがみで足早に去っていった。

ああ、この小さな集落では、夕刊は、こうして配られるんだなあと、私は誰もいなくなった通りで立ち尽くす。
たまらなく、静かで、暗く、こみ上げてくる竜飛の夜だった。



週が明けて私はいつものように報道センターにいる。
今日も煌々と照らされて、四方向から聞こえてくるあらゆる音を取捨選択し、振り落ちてくる情報と格闘する。
朝の会議ではいつものように昨夜の出来事、今日の取材予定などが報告されている。

溢れるようなその情報の波をさまよいながら、私の頭は、あの、竜飛の闇の中で新聞を抱えて音もなく配り歩く初老の女性の姿を思い出していた。














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