三社参り
箱根駅伝は東洋大学の優勝で終り、お正月三が日もまもなく終ろうとしています。ところで、皆さんは初詣に行きましたか?僕は近所の神社に初詣に行きました。
さて、僕は年末年始休暇で大分に帰省したのですが、大分県で初詣客が一番多い神社は宇佐神宮です。僕は初詣でなく年末に宇佐神宮に参って来ました。他にも宇佐神宮の奥宮である大元神社と猪群山の麓にある飯牟礼神社にも参って来ました。三社参りです。ブログ小説「猪群山ストーンサークル殺人事件」の取材も兼ねて久々に行って来たのです。
大分県宇佐市にある宇佐神宮は、全国八幡社の総本宮で、今でも皇室から勅使の来る由緒正しき神社です。奈良時代に僧・道鏡(どうきょう)が皇位に就こうとした時に、和気清麻呂(わけのきよまろ)に御託宣を与えたのも宇佐神宮です。御祭神として、一之御殿に応神天皇・二之御殿に比売大神(ひめのおおかみ)・三之御殿に神功皇后(じんぐうこうごう)を祭っています。参拝方法は一般的な「二礼二拍手一礼」ではなく「二礼四拍手一礼」です。これは確か出雲大社と同じです。
そんな宇佐神宮を、作家の高木彬光さんなどは、卑弥呼の墓だと主張しています。宇佐神宮は謎も多い神秘的な神社なのです。その奥宮の大元神社はもっと神秘的でしたが、その話はまた後日。
というわけで、ブログ小説「猪群山ストーンサークル殺人事件」にも宇佐神宮が近々登場しますのでお楽しみに!
猪群山に伝わる不思議な言い伝え
「目指せ!金曜プレステージ」という無謀な目標を持って、毎週金曜日にアップし続けているブログ小説「猪群山ストーンサークル殺人事件」ですが、ありがたいことに毎週読んで下さっている方々がいてうれしく思っています。
さて先週アップした「第1章 謎の巨大ストーンサークル8」を見て、ツマヨウジさんからコメントをいただきましたので、今日はそれについてお答えしたいと思います。
まず、小説の中で藤森さんというおばあちゃんが話している猪群山(いのむれやま)に伝わる言い伝えは本当かという件ですが、これは本当の話です。そもそも「猪群山ストーンサークル殺人事件」を書いたきっかけは、「NONFIX」という深夜番組で猪群山ストーンサークルを取材したことから始まっています。「卑弥呼の金印を探せ!〜国東半島に眠る謎の巨大ストーンサークル〜」という番組制作をするにあたって、僕は真玉町に住むいろいろな方から話を聞きました。前回書いた町長の話も、実際に当時の町長へのインタビューをベースにしています。今回のおばあちゃんの話も当時実際に聞いた話を書いています。猪群山にはホント不思議な言い伝えがあるものだと驚かされたのです。それが現代まで綿々と語り継がれて、おみせんの草刈りなどを続けているのにもびっくりしました。僕が猪群山を題材にした小説を書きたいと思ったのは、この不思議な言い伝えを聞いたからと言っても過言ではありません。
次に猪群山へ行ってストーンサークルを見たいということですが、僕が取材した時は大分空港からずっと車で移動しましたので公共の交通機関は使用していません。でもどう考えても、ストーンサークル行きのバスは出ていないような気がします。真玉町が作った猪群山ストーンサークル遊歩道があるとはいえ、滅多に訪れる人のいないスポットだからです。たぶん真玉町役場前まではバスで行けると思いますが、猪群山ストーンサークル遊歩道入口までは、マイカーかタクシーで行くしかないと思います。ちなみに駐車場はありませんでした。
その遊歩道入口から普通に歩いて40分ほどで、山頂(458m)近くの猪群山ストーンサークルに着きます。陰陽石という2つの巨石の間を入っていくと、そこがおみせんことストーンサークルです。ただし、女人禁制といにしえの昔から言われているので男性は大丈夫ですが、女性がストーンサークル内に入るのは覚悟をしないといけません。サークルの中に入ると、4.5mぐらいの高さの立派なメンヒル(神体石)が眼前に現れ、荘厳な気持ちにさせられます。また瀬戸内海なども見渡せる絶景ポイントでもあります。
とにかく見ごたえのある謎の遺跡だと思いますので、是非猪群山ストーンサークルを見に行く機会があったら猪群山登山をしてみて下さい。ただ僕らは
冬に登山してロケをしました。なぜならば夏に登ると暑いし草はボウボウだし、蛇やマムシも出そうだからです。山頂には休憩所も何もないし、食料と水分補給もちゃんと考えて下さいね。雪は降らないので、季節的には冬の登山をおすすめします。
猪群山に伝わる不思議な言い伝えの続きは今週アップしますので、お楽しみに!



鬼
今日は節分、「鬼は外、福は内」と豆まきをしました。ところで皆さんは鬼ってどんなものとお考えですか? 大抵の人は、鬼とは「桃太郎」「一寸法師」などに出て来る退治される悪者というイメージを抱いていると思います。
辞書によれば、鬼とは、人の形をしているが頭には角を生やし、口は横に裂けて鋭い牙を持ち、超自然な力を有する想像上の怪物とのことです。転じて、冷酷で無慈悲な人のことも鬼と呼びます。また「仕事の鬼」「土俵の鬼」みたいに、ある1つのことに精魂を傾ける人のことも鬼と呼びます。
我々がイメージしている鬼は、手に金棒を持って、裸だけどトラ柄のパンツをはいている大きな男です。これは、鬼門を丑寅(うしとら)つまり東北の方向としていることに由来しているようです。牛のような角と虎柄のパンツです。
鬼という言葉は「出雲風土記」(733年)に出て来ます。「目一鬼」(まひとつのおに)という記述があるそうです。出雲地方では、鬼は製鉄の神ともされています。だから「目一鬼」は、たたらの中で焼けた砂鉄を見つめているうちに視力を失った人のことを指すようです。鬼は鉄器文化をもたらし、鉄剣や鉄刀を持って強かったに違いありません。僕も製鉄技術を日本に伝えて来た大陸からの渡来人が、鬼と呼ばれていたと思います。それは「卑弥呼の金印を探せ!〜国東半島に眠る巨大ストーンサークルの謎〜」という番組で真玉町の猪群山(いのむれやま)を取材した時に、千把焚きという地元に古来から伝わる雨乞いの儀式を再現してもらって実感したからです。猪群山頂で神官と鬼が出会い、そこで仲良くなって一緒に起こした火を2人で聖火のように持って山を下り、焚き木で作ったピラミッドみたいな三角錐状のものに点火して、てっぺんに立てた蛇の抜け殻を巻きつけたものを燃やして雨乞いをするという儀式を見て、土着の人と製鉄技術を持った渡来人とが仲良く暮らしていくようになったのだろうと思ったのです。金棒を持った鬼の顔が赤いのは、製鉄技術者だからだというのも納得できます。
また、鬼という言葉は「日本書紀」(720年)にも出て来ます。斉明天皇が九州で亡くなった時に、朝倉山に大笠を着た鬼が出て葬儀を覗いていたという記述があります。斉明天皇とは皇極天皇のことです。あの「大化の改新」こと「乙巳の変」の時に、蘇我入鹿が斬られた現場にいた女帝です。教科書にも載っていた入鹿の首が飛んでいる絵を思い出して下さい。それで、斉明天皇はずっと蘇我入鹿の怨霊に怯えていたと書かれています。無実の罪で殺されたのを目の当たりにしていたからこそ、怨霊に怯えていたのでしょう。だから「日本書紀」に書かれていた鬼とは、蘇我入鹿の怨霊だと思います。鬼には時の権力者にまつろわぬ者という意味もあったので、無実の罪で殺された人の怨霊も鬼だったわけです。
このように、鬼にはいろいろな正体が見えてきます。まだまだたくさんの鬼がいます。鬼の正体を探るとおもしろいです。今後もひまがあったら鬼の研究をしたいと思っています。
親子三代に仕えた天海は光秀だったのか?
親子三代と言えば、徳川家康・秀忠・家光の親子三代に仕えていた天海大僧正のことが思い浮かびます。
天海とは「黒衣の宰相」とも呼ばれる僧で、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えたけれども出自が謎の人物です。1536年に生まれ、1643年に108歳でなくなったとされています。会津の芦名家の出身ではないかと言われていますが、確たる証拠はありません。天海として歴史上に現れたのは、1588年に川越にある無量寿寺北院(喜多院)の住職となってからです。その後徳川幕府の霊的指導者となり、江戸の風水の設計もしたと言われています。上野の寛永寺を創建したのも天海とされています。家康の死後は、東照大権現として日光に神として祭ることも決めさせました。それが日光東照宮(写真)なのです。「見ざる聞かざる言わざる」の三猿や「眠り猫」などの彫刻も有名な所ですが、今では「世界遺産」にも登録されています。天海も死後、家光廟のある日光山輪王寺に慈眼堂(写真)という墓所(写真)を作られています。
さてそんな天海ですが、実は明智光秀だったのではないかという説があります。本能寺の変後に殺されたとされている明智光秀は、実は生き延びて比叡山にかくまわれて歴史の表舞台からいったん消えた後、天海と名乗り徳川家康に仕えたという「天海=光秀説」という説です。
この説はいろいろな人に取り上げられていますが、その根拠は以下の通りです。
@京都の慈眼寺に明智光秀の位牌があるが、天海上人の廟も慈眼堂と言う。
A比叡山に明智光秀寄進の灯籠というのがあるが、1615年に贈られている。
B日光に明智平という地名があるが、天海が名づけたらしい。
C明智光秀の重臣の娘の春日局が、天海に異常な敬意を払っていたらしい。
D天海を重用していた家光は、家康と光秀から一字ずつ取ったらしい。
こんな感じで「天海=明智光秀説」がまことしやかに信じられているらしいのですが、天海が亡くなったのは108歳ですから当時としてはかなり長寿になります。「そんなに長生きできたのかなあ?」とは単純にひっかかります。でもおもしろい説だと思いますので、機会があればもっと詳しく調べてみようと思います。
猪群山ストーンサークルは卑弥呼の墓か?!
CXではバラエティ番組一筋で育ってきた僕ですが、一本だけドキュメンタリー番組を撮ったことがあります。深夜の「NONFIX」の枠で放送した「卑弥呼の金印を探せ!〜国東半島に眠る巨大ストーンサークルの謎〜」(1995.2.1深夜OA)という古代史の謎をテーマにしたドキュメンタリーです。大分県の国東(くにさき)半島にある「猪群山(いのむれやま)ストーンサークル」という謎の遺跡をフィーチャーしました。
猪群山ストーンサークルは西国東郡真玉町(今は合併して豊後高田市真玉町)にある猪群山(標高458m)の東の頂にある巨石群です。登山道から歩いて40分ぐらいかかります。ストーンサークルというとなじみがないかもしれませんが、イギリスにある「ストーンヘンジ」を思い浮かべて下さい。巨石が並んでいる環状列石です。目的がはっきりしない遺跡ではありますが、祭祀遺跡とか墓説があります。日本では秋田県にある「大湯環状列石」が有名ですが、猪群山ストーンサークルに並んでいる石はあんなに小さな石ではありません。猪群山ストーンサークルの方が遥かに規模が大きく、真ん中の4.5mある神体石(メンヒル)を中心にして二重の楕円で巨石が並んでいます。長径は279mあり、径百余歩の条件を満たします。外側は土塁が築かれていて、女の人はここから内側に入ることができません。ストーンサークル内は「女人禁制」の聖域なのです。いつできたかわからない遺跡ですが、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)と龍女が出てくる伝説も残っていて、現代も猪群山麓の七畑地区の住民が毎年一回草刈をして清める「女人禁制」の聖域なのです。昭和35年までは「千把焚き」という雨乞いの儀式をストーンサークルでやっていたそうです。そんな不思議な遺跡の猪群山ストーンサークルですが、大分県からは遺跡として認定されていません。ストーンサークルというものは古墳と違って、学者の研究対象にされないのでしょう。
僕は「猪群山ストーンサークルは卑弥呼の墓ではないか?」という古代史研究家の山上智氏の説の下で企画書を作り、番組化することができたのです。山上氏と知り合ったのは「ごっつええ感じ」の「なるほど春祭への道」で、ごっつチームがトランプマンのカードを見破れるようにダウジングしてもらうというのがきっかけでした。見た目ちょっと胡散臭そうに見えるのですが、古代史研究家だということで話をしているうちに信用できたのです。そして山上氏の説に僕の意見なども取り入れてもらって企画書を作り、運良く企画が通ったのです。その後ロケハンにも行き、実際に猪群山ストーンサークルを目の当たりにして山上説を余計に信じられるようになりました。
番組では「邪馬台国は宇佐にあり、卑弥呼は猪群山ストーンサークルに埋葬された」という山上説を検証するという形で、須田哲夫アナと山上氏のコンビで検証の旅を進めました。この説に関しては後日「古代史の仮説」で詳しく書きますが、福岡県の神湊(こうのみなと)を末盧国(まつらこく)と比定することから始めて「魏志倭人伝」に書かれていることに忠実に進みました。通説は東松浦半島が末盧国とされていますが、距離も短いし地形も険しいからおかしいのです。高木彬光氏の説もそうですが、神湊こそが一大国(いきこく)から1000里の所だとしました。ちなみにこの地にある年毛神社には「この地が昔万津浦(まつら)と呼ばれていた」と書かれていました。そして香春町(かわらまち)・宇佐神宮を経て、その奥宮である大元神社のある御許山(おもとやま)を訪ね、そこから丑寅の方角すなわち鬼門にあたる方向にある猪群山ストーンサークルに卑弥呼は埋葬されたのではないかとしました。今でもお墓には墓石が立っているではありませんか? そしてここが卑弥呼の墓なら魏からもらった「親魏倭王」の金印など見つかるはずです。
僕は番組のため真玉町に協力を仰ぎました。町の地域振興課長さんたちが、僕が同じ大分県人というのもあり、町の観光PRのためにもと全面協力してくれました。宿や車も用意してくれ、毎日おいしい真玉の海の幸などをごちそうしてくれました。温泉も付いていました。「魏志倭人伝」に書いている風俗・風習が全部あてはまるような気がしてくるぐらいの歓待でした。
猪群山ストーンサークルの調査のため、特別に草刈もしてもらいました。おばちゃんたちは土塁の外で我々のためにお茶やおにぎりの用意をしてくれました。また「千把焚き」も再現してもらいました。そして町の教育委員会の学術調査ということで、我々が持ち込んだ地底探査機が金属反応を得た所を掘らせてもらいました。(メンヒルの下は許可されませんでしたが…)遺跡として認定されていないから逆に良かったのかもしれません。三箇所でいずれも1m20cmぐらいの所に反応があったのですが、30cmぐらい掘った所で町の教育長が呼んでいた大分県教育委員会の人に「これから先は地山だから掘っても無駄だ」と言われてストップをかけられました。県の人に言われて町の人もさすがに発掘をストップするよう我々に通達してきました。「なぜもっと深く掘れないのか!地山って30cmで出てくるのか!」と怒りがこみ上げてきましたが、協力を惜しまなかった真玉町の方々に迷惑をかけるわけにも行かず、我々はそこで発掘調査を断念しました。それでも宋銭や土器の破片などは出ていたから本当に残念でした。
卑弥呼の墓だという実証ができずに須田アナの結果報告を撮り終えて、取材は終ったのです。でも何かありそうな遺跡だと今でも思っています。
![]() 神体石(メンヒル) | ![]() 猪群山ストーンサークル | ![]() 位置関係 |
織田信長・本能寺の変の謎
今日放送の「あっぱれさんま大教授」のゲストは、モデル出身の女優の佐田真由美さんです。明石家さんま師匠とは初顔合わせです。勝負の世界ではよく初物に弱いというジンクスがありますが、さんま師匠の戦場にはそれは当てはまりません。見事にさばいていました。片や佐田さんも結構堂々と渡り合っていました。意外だったのは「織田信長が気になる」ということでした。
実は僕も織田信長が気になっていたのです。特に本能寺の変の真相に興味があるのです。それで以前TBSでやった特番「バチカンに眠る織田信長の夢〜暗殺の黒幕はあの男…残された暗号を解読せよ〜」も見ましたし、テレ朝でやった特番「信長の棺」も見ました。
1582年に明智光秀によって織田信長が暗殺された「本能寺の変」には2つの謎があります。@明智光秀は独断で主君・織田信長を殺したのか? A織田信長の亡骸が見つかっていないのはなぜか? の2点です。TBSのこの特番ではその疑問を検証していました。
僕も「本能寺の変」は、明智光秀が単独で起こしたものではないと思っています。やはり光秀をそそのかした人物がいるはずです。この特番では朝廷の近衛前久(このえさきひさ)が黒幕ではないかとしていました。僕も見ていて「さもありなん」と思いました。近衛前久についてはよく知りませんでしたが、五摂家の近衛家といえば藤原氏そのものです。乙巳の変(大化の改新)の中臣鎌足を祖先に持つ「陰謀」が大得意の家柄です。他にも足利義昭やイエズス会や徳川家康など、信長を排除したいと思っていただろう人間は山ほどいます。そんな中で信長と親しかった近衛前久が、信長を裏切って陰謀を張り巡らせていたのは、大いにあり得るなあと思いました。
もう1つの謎の、信長の亡骸が見つからないのは、本能寺が火薬庫だったので爆死したからだとしていました。鉄砲隊で乱世を統一した信長が、種子島から取り寄せた爆薬を本能寺に隠していたとする説です。火薬庫に火がつけば、遺骨も吹っ飛ぶでしょう。これも「さもありなん」です。
テレ朝の番組「信長の棺」では、本能寺から出る秘密の地下出口を山の民(サンガ)がふさいでいたので、羽柴秀吉も絡んでいたのではという説をやっていました。その番組では「信長公記」を書いた太田牛一が山の民の協力で、主君の遺体をこっそり葬っていたとしていました。これはまた「さもありなん」という説でした。
あとTBSの番組では安土城が完成した際に、織田信長が狩野永徳に描かせた「安土城屏風絵」がバチカンに眠っているのではないかと探しに行っていましたが、残念ながら見つかっていません。
そんなわけで、僕は古代史の謎を探るのが好きなのですが、「本能寺の変」の変なところを探るのもおもしろいなあと感じた次第です。今後いろいろな説の本を読もうと思いました。良き本があれば是非教えて下さい。















