ずっと蓋をしていた気持ち。

07月01日(日)
仙台での研修2日目の朝。
関西テレビの石巻大先輩が、ふと優しい声で問いかけてくださいました。
「佐々木さん、阪神淡路大震災のとき、、、、どうだったの?」。

家が全壊になったんですよね、と続けながら、これまで何度も反芻した記憶どおりに、自分の中の定型として話を進めました。
その時は横浜の社宅に引っ越していて、父が週に1度甲子園の実家に帰っていたこと。
父は前日に東京に戻っていて、誰も直接は被災しなかったこと。
家だけが全壊になって、すぐに取り壊したこと。
両親は退職後、その家に戻るつもりだったこと。
でも更地になった土地を手放し、今、両親と東京で2世帯同居していること、等々・・・。

石巻さんも、場所柄、23年前に被災をされています。経た時間の持つ意味を話しながら、1人になった時にふと涙がつつつとこぼれました。発災当時は泣くことはなかったのに、です。
なんだ、この気持ち。
もう随分時間も経って、わたしには今の日常があって、すっかり自分の中で「。」終止符がついた記憶になっていました。

でも。そのあと考えていて、気づいたのですね。ずっと、”自分が被災者であると思ってはいけない”と封じ込めていた気持ちに。

家族は無事で、家も思い出の品も写真も、まるでなくなったけど、直接怖い思いをしなかった、それだけでも有難いし、ましてや、本当に怖い思いをした友人・知人たちにどこか後ろめたい。

よく被災地の取材に行くと、「もっと大変な経験をされている人が多いから、自分の不満や要望など、とてもじゃないけど言えない。」と聞きます。
人としての思いやりや共感の力ってすごいな、、、、と思わされます。と同時に、辛いとか悲しいとか感じる気持ちを自分に許せていない状態なのだとも思います。

「こんなこと、大変だって言っちゃいけない。命があるだけでラッキーだ」と
家族でも何度も言ってきました。それが前向きな力にもなってきました。
しかし、その後の人生の選択に、被災をしたかたどうかが影響しないわけはないのです。
特に両親にとっては。
帰る場所を手放し、縁の薄かった土地で暮らし続けることを選びました。
それが良かったのかどうかは、わかりません。
自分が子を守る立場になって、あの時の両親の気持ちが理解できることも増えました。現実的な、数少ない選択肢の中で、その時のベストを選んだつもりで今があるのだと思います。

ふと問いかけてくださったことで、私の中に「悲しかったと言っていいんだ」と許可できた気がします。
私も、当事者の一人だったんだよね、と。
気づけたことで、ずっと蓋をして重くなっていた感情が、手放していけるようにも思います。

研修の中や、東日本大震災の語り部の丹野さんのお話の中で、何度も「終わりはないのだ」という言葉を聞きました。
そして、被災した人の数の分だけ異なる物語があるのだということも。

心が再生していくのは、時間も必要だけれど、人と人とのちょっとした関わりや、親身な受け止め方一つで、記憶が編集され、強くなっていけるのも、また人のチカラだと思うのです。

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