新・週刊フジテレビ批評

The 批評対談

“テレビに金字塔を打ち立てた男たち” 「プロ野球ニュース」は如何にして一時代を築いたのか

DATE : 2017.08.12(土)

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多くの人々の記憶に残る、様々なテレビ番組。それを作ってきた人物にその制作秘話を聞いていくシリーズ企画。第1弾は「プロ野球ニュース」の初代キャスター・佐々木信也氏。
1976年から2001年までフジテレビ地上波で放送された「プロ野球ニュース」。
革命的なスポーツニュースとして一時代を築き、多くの個性的な解説者を生み出した。
また、オフシーズンには数々の名物企画も誕生した。
初代キャスターを務めた佐々木信也氏を中心に作り上げられていった「プロ野球ニュース」は、プロ野球界のシンボル的ニュース番組として四半世紀以上にわたり引き継がれている。そんな佐々木信也氏と、元「プロ野球ニュース」キャスターの西山喜久恵アナが語り尽くす。

佐々木氏の現在の生活は「遊びばかり」とのこと。ゴルフや麻雀、さらに落語を聞きに寄席へ行ったり、食べ歩き、そして時々旅行をしたりと楽しんでいる。

12球団の全試合を丁寧に紹介する画期的なスポーツニュースとして誕生した「プロ野球ニュース」。
その初代キャスターに抜擢されたのは、日本テレビの野球解説者だった佐々木信也氏。
1976年「プロ野球ニュース」放送開始にあたり、まず最初に電話がきて、会いに行くと「『プロ野球ニュース』の司会をやらないか」と言われたという。
佐々木氏は「待ってました、という感じ」だったとのこと。
テレビ朝日で4年、日本テレビで10年、合計14年間解説をやってきた佐々木氏。
「解説は野球の放送では助手席に座っている状態。ハンドルはアナウンサーが握っている。私はハンドルを握りたかった。」という佐々木氏は二つ返事でOKをし、嬉しかった、と当時を振り返る。戸惑いは全くなかったという。

佐々木氏は高校1年の時に神奈川県立湘南高校野球部で、まさか県予選でも優勝はしないだろうと思っていたところ、幸運にも甲子園出場を果たし、さらに全国優勝してしまった、という経験がある。
芦屋高校と名古屋・瑞陵高校、そして小倉高校という名門校が出場する中、上手く間をぬって決勝まで行き、勝ってしまった。佐々木氏は、決勝ではいいところでヒットを2本、二塁打と進塁打が優勝の原動力になった。
そして、慶応義塾大学に入学してからも早慶戦でたくさんの観客が見守る中、ホームランも放ち活躍した佐々木氏。
プロに入る気はなかったというが、プロ入りしオールスター戦にも選出されると、その大舞台でもヒットを放った。
引退後は解説者としてテレビ朝日に4年、その後日本テレビで10年務めたが、その間に巨人が9連覇を達成。「日テレに10年いた間に巨人9連覇に立ち会えたのはラッキーだった」と佐々木氏は振り返る。
そして1年ほどを経たのち、フジテレビの「プロ野球ニュース」のキャスターへ。「プロ野球ニュース」では12年間、司会を務めたが、その間に視聴率を調べたことがないという。どれほどの数字をあげていたのか知らないのだ。ただ、ビッグスポンサーが目白押しで、良いスポンサーがキャンセル待ちとは聞いており、これは相当な金が動いているなということは感じていたとのこと。
当時、司会は佐々木氏1人。アシスタントもいなかったため、様々なトーク、ネタは全部佐々木氏自身がアレンジしなければならなかった。球場に通い、監督や選手と話をする時に、監督、コーチ、選手皆が番組を見てくれていることが分かったという。
「ユニフォーム組がこんなにたくさん見てくれるということは、これは成功だと思った」と佐々木氏。

佐々木氏はキャスターを務めるにあたり、生放送にはつきもののいわゆるハプニングが起きた時に、キャスターとしてどう対応するかを考えに考えたという。ラジオなら見えないが、テレビはバッチリ見えているからだ。初回放送前に佐々木氏はスタッフと7、8回ミーティングをして、何が起きるか、生放送でどんなトラブルが起きるか、それをどう対応するか話し合い、考えられるトラブルの全部と言っていいほど検討して、もうこれで大丈夫だろう、これ以上のことは起きないだろうと思っていたが、放送開始のその日に早くもトラブルは起きたという。

それは大阪の中継に振った時のこと。佐々木氏を撮っているカメラはタリーという赤いランプがついており、このランプがついている間は佐々木氏の姿が全国に放送されていて、消えると大阪に移った、ということなのだが、このタリーランプが大阪に振っても消えなかった。仕方なく、繋がるまで話題を引き延ばすしかなかったが、なんとかその場は言葉をつないで切り抜けたという。

「プロ野球ニュース」には、担当ディレクターが当時10人いた。この10人の中に、完全にこの人は信頼できて何の心配もいらないというディレクターは2人、まぁまぁのディレクターが6人、危なっかしいディレクターが2人いたという。それでも、危なっかしい2人のディレクターは人柄は申し分なく、佐々木氏は大好きだったという。
だが油断はできず、放送終了2、3分前になってサブから階段をドンドンと降りてきて「佐々木さん1分余っちゃった。何とかして!」と言われた経験が何度かあったという。
生放送で1分余るという事態に備えて、デスクの上にどうでもいいネタを3つほど用意しておき、それを即座にしゃべって時間をつないでいた。

各球団、分け隔てなくというコンセプトは最初からだった。基本的に12球団全部の試合を映して、紹介するVTRの長い短いはあったが、できるだけ公平にやろうという考え方だった。パリーグの関係者には、それが喜ばれたという。
特に日本ハムとロッテの球団関係者は、佐々木氏が球場を訪れるとVIP扱い。

試合後のヒーローインタビューでは、その日のヒーローに3分ほど番組でインタビューした。その際、選手へのギャラは3万円ほどだったが、ロッテ、日本ハムの選手にギャラを渡そうとすると、球団のフロント担当者が「とんでもない。そんなものいただけない。うちの選手を『プロ野球ニュース』に出してくださるだけで僕らは大喜び」と受け取らなかったという。
ただし、次の年になると、恐る恐る手を出された。「ひょっとしたら、セ・リーグのどこかのチームが『おまえのところももらえよ』と言ったのではないかと思う」と、佐々木氏は当時のことを振り返る。

「プロ野球ニュース」は、個性的な解説者陣が番組を彩った。佐々木氏には、その個性を活かしながらコントロールする役割も求められた。佐々木氏は当時を振り返り、「本当に全く大変という感じはなかった」と述べた。
「口うるさい別所毅彦さんや、豊田泰光さんなどは信念を持っていて、中途半端な気持ちでやっていないから、やりやすかった」と語った。
「違うんじゃないですか?」ということを言ったり、そういう話ができるような間柄であり、「それは実は佐々木くんこうなのだよ」などというやり取りがあり、番組の中で喧嘩になることはなかったが、誰も引き下がらなかったという。
別所さんらはアナウンサーが球種を間違えると、「あれはカーブじゃない、スライダーだ。」などと怒った。解説者がはっきりと物申してくれていた。
「今はそんなことを言う解説者はいない。もうスライダーでもカーブでもどっちでもいいように感じる。最近の野球の放送、サッカーの放送は甘い」と佐々木氏。
また現在、解説者もアナウンサーも選手を呼び捨てにしないで、「〜選手」と付けるが、呼び捨てで良いのではないかと佐々木氏は考えている。
そういうことも含め、解説者が選手に対して、厳しいことをしっかり言うのも「プロ野球ニュース」の魅力だった。「遠慮しない。駄目なものは駄目と言うべき。一生懸命やっていても凡プレーはある。ただいけないのは頭脳的なミス、そういうのはどんどん叱る。別所さんに叱られたら仕方ない」と佐々木氏。

さらに、「プロ野球ニュース」の素晴らしかった点として、アナウンサーも解説者もグラウンドに出向くところをあげた。
佐々木氏も12年間で、ナイターの時は1時から2時の間に球場へ行き試合を観戦。6回7回終了ほどで引き上げてくるが、実働時間が長かったとのこと。西山アナも、「プロ野球ニュース」のキャスターを務めていた時には、昼過ぎには球場に行き取材をして、夜の「プロ野球ニュース」に備えるというスケジュールで、かなりきつかったと明かした。佐々木氏が1時過ぎに行くと、グラウンドにはまだ誰もいない状態。そのような中、佐々木氏は落ちているボールを持って、外野でフェンスにぶつけて跳ね返り具合を見たり、体をぶつけてフェンスの硬さを調べたりしていた。そしてボールをホームベースから1塁線、3塁線に転がした。昔の球場はマウンドから傾斜があり、打球がファウルになりやすかった。その後、平らになり真っ直ぐ転がるようになったが、当時はその転がり具合を調べたり、やることが沢山あった。
そして選手が来たら話をし、監督から話を聞き出したりと、取材は面白かったとのこと。

佐々木氏は横浜ベイスターズの松岡功祐選手がグラウンドに入ってくる時に、最敬礼をして入ってきて、帰る時もグラウンドに最敬礼して帰る姿を見ていた。松岡選手のグラウンドに対する感謝の気持ち、野球に対する感謝の気持ちが彼の一挙手一投足に表れていたのだと語る。ただ、その姿をいつ番組で紹介するかが問題で、松岡選手が活躍した時でないと意味がない。ある日の巨人戦で松岡選手は途中から起用され、逆転の2塁打と追加点をあげるダメ押しの3塁打を打った。佐々木氏は「もう今日しかない」と思い、「松岡選手のこの2本のタイムリーヒットは普段の心掛け、野球に対する感謝の気持ちが表れたに違いない、と僕は思います」と述べたという。
次の日、グラウンドに行くと、松岡選手が走ってきてお礼を言われた。「昨日は夜中の2時まで電話が鳴りっぱなしだった」と話し、その後、彼の佐々木氏に対する態度が変わったという。

またある日の試合で、佐々木氏はいつもとは少し違う練習に気づき、監督に聞くと、「今日のピッチャーはインコース寄りの球が厳しく打ちにくいので、内側は捨てて外側をライトへ打とうと思っている。佐々木さん、見ていてください。」と言われた。そして試合では確かにそういう打ち方をしていた。そのような練習の情報も、選手の働き次第で放送に使うなど、様々な細かいアプローチをしていた。

さらに、佐々木氏は王貞治氏の引退にも触れた。引退間近には目の周りの表情が柔らかくなってきたと、その変化に気づいたという。そして王貞治氏はその年のシーズン終わりで引退した。後で王貞治氏に「どんな気持ちだったの?」と聞くと「振り遅れてしまっていた。今までと同じスピードで、同じ感覚で足を上げて打ちにいくのに、遅れた」と語ったという。
体の機能がそれだけ衰えていて、少し早めに振るとタイミングが合わなくなる。それを何回か繰り返しているうちに諦めたのだろうと、その時、王貞治氏の心中を察したそうだ。
選手たちの表情や動きを見ていると、今どんな状況で試合に出ているか、心理状態はどうか、体の状態はどうかが分かると佐々木氏は言う。
森祇晶氏のような優れた監督は、佐々木氏よりも上を行く洞察力で選手を見ていたという。そして、「何にも見えていなかったのが長嶋茂雄氏」とコメント、「それがあの人の持ち味だったのだろう」と述べた。

83年には「今日のホームラン」というコーナーがスタート。バッターは喜んでいたが、ピッチャーたちは「“今日の三振"はやってくれないの?」などと言っていたという。さらに、ホームランを打った際、番組を録画し、調子が悪くなった時に見返して勉強していた選手もいた。一方、監督やコーチに言わせると、次に対戦するチームが今どういう状況なのか、誰がバットを振れていて、誰が不調なのかが全部分かるため、それを皆見ていたという。「プロ野球ニュース」が分析の助けにもなっていたのだ。そのため佐々木氏らが取材に行くと大事にされたという。

「珍プレー好プレー」も「プロ野球ニュース」から生まれた。
もとはアメリカから週1回届いていた「This week in baseball」というVTR。その中では試合の模様の最後に珍プレー好プレー集が収められていた。それが面白く、「日本版もできない?」と誰かが言い出して、良いアイディアがどんどん出てきたという。それから「珍プレー好プレー」の企画がだんだん大きくなった。ナレーションを務めたみのもんた氏のタイミングも絶妙で面白かったと佐々木氏。
また、「珍プレー好プレー」の名シーンといえば、中日の宇野勝氏の見事な“ヘディング"。あの弾み方が素晴らしく、放送後、宇野氏は「どこに行ってもあの話から入ってくるので参った」と言っていたが、「でも、それで僕は有名になった」と喜んでいたという。

さらに、オフシーズンに放送する様々な名物企画も生まれた。
その1つが選手たちの故郷を訪ね、両親やゆかりの人物、場所を巡る「我が故郷」。
1980年に放送した中日・小松辰雄氏の故郷は、寒風吹きすさぶ石川県の能登半島。
また、1993年のオフにヤクルト古田敦也氏の「我が故郷」を紹介したのは、後に妻となる中井美穂アナ。
当時のオフ企画は企画会議が面白かったと振り返る佐々木氏。企画会議といえば、フジテレビのどこか一室でいつも同じ時間に毎週企画会議をやるものというイメージだが、そんなものではなかった。
オフシーズンの企画の中には、ゴルフ場で決めた企画が随分あるという。ゴルフ好きのスタッフを連れてゴルフに行き、プレイ後お風呂に入り、何か飲みながら何となく話をしていて出てきた企画や、他にもお茶を飲みながらご飯を食べながら生まれた企画もたくさんあったそうだ。
松岡弘選手と大矢明彦選手、ヤクルトのピッチャーとキャッチャーが日本海沿いの鉄道の駅弁を食べ歩く、という面白い企画も誰かが考えついたという。
後で大矢選手と松岡選手に聞くと、「佐々木さん、笑いごとじゃない。僕、いくつ弁当食わされたか分かったものじゃない」「宿へ着くとまた食べものが出てくる。美味しそうな顔して食べないといけないから辛かった」と言っていたとのこと。

「プロ野球ニュース」のオフ企画に出ることも選手は楽しみに待っていたと佐々木氏。
しかし、「シーズンオフに一時間番組を埋めないといけないのだから、考えてみれば大変」と当時の制作側の苦労を語った。皆が喜ぶネタを一生懸命考えたという。
フジテレビが乗りに乗っていた時で、視聴率はずっとトップを続けており、フジテレビの社員も外から来る業者の人たちも、皆、目がキラキラ輝いていた。佐々木氏は良い雰囲気だなと思ったとのこと。
「プロ野球ニュース」が始まってすぐの頃、番組で少しミスがあり、放送後、部屋に戻るとディレクター2人が喧嘩していたことがあったという。2人が取っ組み合い寸前の喧嘩をしていたが、周りが皆、ニコニコ笑いながら見ていた。それを見て「良いな、この雰囲気。それほど仕事に生きがいを持って、なぁなぁに終わらせない。だから成功したのではないかと思う」と、「プロ野球ニュース」に対するスタッフの真剣さについて語った。

佐々木氏は、今のフジテレビでもあの時のような気持ちになれば盛り返せると思う、という。「生きた企画会議をやっていないのではないか。他の局には外出時には録画しておこうと思う番組がある。しかしフジテレビには録画したい番組がない」と述べた。
そんな中でも「ジャンクSPORTS」は、他の局にない良い番組だという。なぜ、「ジャンクSPORTS」を毎週やらないのか、毎月やらないのか疑問とのこと。スポーツ選手は「ジャンクSPORTS」が好きで出演しているし、彼らはしゃべりが面白い。「出演すると張り切って、しゃべりの試合みたいになるから、目立とう精神が働く」と佐々木氏。

当時11時台といえば、「11PM」があったが、佐々木氏は「フジテレビが野球で殴り込みをかけたということは、すごい勇気だなと思った」という。
「11PM」から「プロ野球ニュース」に切り替えたローカル局も何局かあった。
佐々木氏がキャンプ巡りに行った時、宮崎と高知の局の社長室に挨拶へ行くと、社長にものすごく喜ばれたという。
「おかげさまで視聴率が倍になった」と言われ、ますますやる気になったとのこと。
そうして「プロ野球ニュース」が全国区になっていった。
また、共同制作をしていた名古屋の東海テレビ、大阪の関西テレビ、テレビ新広島、テレビ西日本がフジテレビと共に競争意識を持って、「自分の局だけいい加減な番組は作れない」と良いスタッフを揃え、アナウンサーはベストアナウンサーを起用。それが良かったのではないかと、切磋琢磨していた当時について佐々木氏は語った。

名物アナも誕生した。TSSのテレビ新広島の神田アナについて佐々木氏は、「その頃は20代前半。こんな若造のアナウンサーで大丈夫かと思ったが、上手くしゃべるし、彼の広島カープに対する愛情のようなものが伝わってきて、これは大丈夫だと感じた。それから押しも押されもせぬアナウンサーとなった」と述べた。
東海テレビの吉村アナも良かったという。関西テレビでは松本アナと塩田アナなど、各放送局を代表するアナウンサーが起用された。
「彼らが最初、どの程度、野球が好きだったかは知らないが、やっているうちに野球に対する愛情のようなものを感じながら喋っていた」と佐々木氏。
様々な仕事をやっていると、やる気のないスタッフも中にはいて、それはすぐに分かるという。「プロ野球ニュース」の場合には、やる気のない人は1人もいなかったため、楽しかったと佐々木氏は振り返る。

佐々木氏はキャスターを務めた12年間、月曜から金曜まで毎晩自分の車で動いていた。もし12年間、局のハイヤーを使っていたら、億単位の費用がかかっていたと指摘。さらに佐々木氏は、後楽園でゲームを見ている最中に、「神宮でノーヒットノーランの試合になっている」「ランナーが1人も出ていない」などというニュースが入ってくると、そこから飛び出して神宮球場に向かっていた。自分の車だからこそ可能だったのだ。あまりの忙しさに、「プロ野球ニュース」の放送が終わるまで、夕飯を食べていないことに気づかない日もあった。

佐々木氏は「プロ野球ニュース」のキャスターを12年間務めた後、1988年にフジテレビ野崎昌一アナに交代。それは佐々木氏本人に突然伝えられたという。また土日のキャスターも、みのもんた氏から中井美穂アナへと交代となった。
佐々木氏が「プロ野球ニュース」のキャスターを始めたのは42歳、辞めた時は54歳。「男の54歳は絶好調。体力、気力、頭の回転も絶好調。だからやれと言われれば、あと10年ほど楽にできるような体力だった」と当時を振り返った。
交代する出演者の中で最後に知らされたのが佐々木氏だった。新宿のホテルに呼び出されて、すき焼きか何かをご馳走になったが美味しくなかった、と振り返る。
「佐々木さんにやっていていただいて、何の不足もないのだけど」と言われたが、不足ないならやらせておけばいいだろう、と思ったという。しかし「佐々木さんがやっていると若い人が育たない」と言われ、これはもう仕方ないと思ったとのこと。「皆でミーティングをして出した結論だろうし、これはもう駄目だな」と察した佐々木氏は、「分かりました」と言って、黙って静かにまずい肉を食べたという。
ちなみに、みのもんた氏は「何で俺を代えるんだ」と怒ったそうだ。佐々木氏は、「その気持ちは分かる。私だって怒りたかった」と述べた上で、「がっかりした」と当時の心境を語った。

「プロ野球ニュース」のキャスターを辞めて、もう30年近くになる佐々木氏。しかし、いまだに佐々木氏に対して「『プロ野球ニュース』を見ていた」といってくれる人が日本全国に大勢いるので、有り難いことだと思っているとのこと。
「プロ野球ニュース」を良い番組だったと改めて振り返る佐々木氏は、「今もし地上波で『プロ野球ニュース』が始まったら皆さん見てくれますかね?」と西山アナに問いかけた。
西山アナも「見ると思う」と述べ、特にカープをはじめとする地方の球団が熱く、それをまた「プロ野球ニュース」という形で、フジテレビが伝えるということは面白いのではないかとコメント。
佐々木氏は「成功するということはこういうこと。作るのは人だから、良い人材がそろって、その人たちが様々な意見を出し合って、よしこれでいこうと思ったら皆で力を集中する。あのエネルギーが素晴らしかった」と述べた。
西山アナも、活躍したピッチャーなどから時々、「『プロ野球ニュース』で西山さんがキャンプに来て、まだ2軍の自分を取材してくれて嬉しかった」などと言われることがあるという。

「プロ野球ニュース」に女性が登場したきっかけは、佐々木氏が作った。それは、オフシーズンの企画で、選手の家庭に男性アナウンサーや解説者が行くよりも、女性アナウンサーに行かせたらどうかと提案したという。そうすると向こうも鼻の下を伸ばして、いろいろ気を許してしゃべってくれる、と考えたとのこと。中井美穂アナはその最初となった。中井アナは、当初は野球に全然興味がなかったが司会を務め、その後、古田敦也氏と結婚。
西山アナが中井アナの企画で覚えているのが、野茂選手と中井アナがオフで北海道にお寿司を食べに行くという企画。野茂選手は普段は全然しゃべらない人だが、中井アナとは会話が弾んでいたという。佐々木氏も、「野茂は無口。野茂にしゃべらせるのは容易じゃない。」と述べ、西山アナはその野茂選手をしゃべらせた中井アナを見て、面白くて、「プロ野球ニュース」の番組のすごさを感じたと述べた。

佐々木氏は最後に「フジテレビでとても良い想いをさせていただいた経験者だけに、その局がもう一度復活してほしいと、いつも願っている。」とし、「それにはかなりの努力が必要で、これは上の方の人たちに任せておくのではなく、下の方からパワーが出てこないかな、良いアイディアが出てこないかなと思う。」と述べた。さらに、「20代30代の若い社員、あるいは外部スタッフも含めて、ノーアウトフルベースのチャンスを作ってほしい。フジテレビ面白いね、活気があるね、フジテレビのドラマは面白いね、といった外せない番組を1つでも2つでも作っていってほしい」とフジテレビへの期待を述べて締めくくった。


GUEST
佐々木信也  / 「プロ野球ニュース」初代キャスター
1933年東京生まれ 湘南高校1年時に夏の甲子園大会優勝、慶應義塾大学から1956年にプロ入り、高橋ユニオンズ→大映→大毎で活躍後、1959年引退。その後、野球解説者となり、1976年からはフジテレビ「プロ野球ニュース」キャスターを12年間務める。
 
 

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